「お母さんが好きなことをしていたら子どもは幸せ」の意味は間違われやすい

am3こんにちは。

AI-am(アイアム)
星山 海琳 です。

 

お母さんが好きなことをしていたら子どもは幸せ、という。

わたしも昔、こんなふうに ↓ 言ったことがあるけれど、これって、誤解されがちな言葉だなと感じてます。

 

実のところ子どもは、「好きなこと」をしていてほしいわけじゃないんですよ。

 

好きなひとが気分よくいてくれたり、充実していたり、楽しそうにしていたら、うれしいでしょう。

眉を寄せたり、ため息をついたり、イライラされているよりは。

仕事の同僚や、コンビニの店員さんとの一瞬のやりとりでさえ、そうじゃないですか。
いつもムスッとされているよりは、愛想よくにっこり笑ってくれるほうが気持ちいい。

 

それが親を見る子どもの目線なら、他人間の何倍も大きな意味がある。

 

いつ、ひとは楽しくなる?

ひとの気分がよくなるとき、充実しているとき、楽しくなるときは、いつだろう。

少なくともいやいや仕事に向かっていたり、誰かへの恨みつらみを反芻しているときじゃない。

誰かになにかすてきなプレゼントをもらったらご機嫌になれるけど、それは自分で起こせることじゃない。

 

他人になにかをしてもらわなくても、「好きなことをしている」とき、ひとの気分は自らよくなって、充実し、なにかを楽しむことができます(笑顔でも真顔でも)。

だから、「お母さんが好きなことをしていたら子どもは幸せ」。

 

親は唯一無条件に求められる相手

誤解されがちなのは、自分が楽しければいいんでしょ、ってところです。

母親が機嫌よくいることは家庭を気持ちよくするけれど、母親にあたるひとが自分の世界で楽しくやっていれば家族みんなが幸せかというと、そうじゃない。

 

母親が、自分自身のほうで楽しみ、集中し、子どもが求めていないところまで首をつっこんで怒ったり叱ったりしなくなるのは、子どもにとっていい感じのすることです。

しかもイライラした顔ではなく、満足げな顔が見られる。

好きなひとが人生を楽しいものだと思っているなら、そんなにうれしいことってないでしょう。
大人って楽しいんだ、と思えるのもいい。

 

けれども、よほど険悪な関係性でなければ、親が親であることを業務にしてしまって、自分から離れていくことを喜ぶ子どもはいない。

自分が求めているときでさえ、自分から遠ざかり、切り離された場所で踊って、あ、目が合わないんだな、と感じるのは、とても悲しい。

 

子どもにとっての親って、無条件に求められる、唯一の相手だと思うんです。

 

母親である前にひとりの人間だ、という。
じゃ、子どもは子どもである前にひとりの人間なんだろうか。

母親に愛されることって、尽くしてもらうことなんだろうか。
そんなことは、ない。

母親であることも子どもであることも、人間であることの前や後ろに位置するようなものじゃないはずなんです。

そうじゃないと、わたしたちはずっと「与える」とか「奪う」とか、そんなやり取りしかできない。
唯一無条件な関係でいられる、一緒に暮らしているあいだ、いちばん共生したい相手と。

 

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