こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
無償の愛とはいうけれど、無料の愛という言葉には聞き馴染みがない。
無償と無料の違いは「金銭以外を要求するかどうか」ということ。
無償は金銭のほかにおいても無条件で、無料なら”料金”は必要ないですよ、と。
他人間では有料で愛を受けることもできるけれども、親子間においては愛は無償だということになっている。
うーん、そうだろうか。
いまわかる愛がほしい
親はたくさんのことを子どもに求める。
教育やしつけといった言葉を借り、善意の域を超えて。
寝る時間に起きる時間、宿題、テストの点数、外遊び。
友だちと仲良くすること、あいさつをすること、約束をまもって、駄々をこねないこと。
おやつは食べすぎずに、好き嫌いなく野菜を食べること。
求めるばかりでなく、それらを実行しないとくれば(言うことを聞かなければ)、叱りつけて、罰まで与えることもある。
これが親の愛なんだ、といっても多くの場合、子どもが感じとるのは愛情ではなく恐れや反感にちがいない。
恐れは少なければ少ないほどいいし、あとになってわかる愛情もあるにせよ、いまわかる愛情は、多ければ多いほどいい。
それは、後々にも残っていくものだし。
関係をつなぎとめるもの
こういう家庭にあるものは、無償の愛 というより 無料の愛 といったほうが正しいような気がする。
お金はいらない(むしろ親が大いに負担するわけだ)けど、日々親の言うとおりに育ち、価値をつけ、こんな人になれ、という、条件つきの愛。
タダより高いものはないともいうけれど。
なにが良くて悪いということもないから、それはそれでひとつのあり方だろうし、実際にいま親子の多くが、こういうシステムだと思う。
でもそれって、ひとりでは生活できない年齢を過ぎれば、「無料であること」が関係をつなぎとめているんじゃないだろうか。
* いつか親が仕送りや生活費を子どもに要求するなら(子どもが「あげる」のではなく親が「よこせ」と)、ある意味はじめから有料の愛なのかもしれない。
これを良い循環と呼ぶかどうかは、人による……わたしは呼ばないけれど。
たとえばわたしはもう二十歳をすぎて、自分でお金を稼ぐこともできる。
あれそれの契約にも保護者の名前は要らなくなって、一緒にいることで家賃や生活費の面倒をみてもらえるわけでもない。
それでも親と一緒に暮らそうと思うのは、一緒にいることが楽しく、心地よいからという理由のほかにないよな、と、ちょうど昨日、よっぴー と話した。
ほんとうに無償の関係を築ける相手って、そう多くはない。
せめて親子のあいだに築かれていれば、それひとつで、子どもはどんな理不尽なところへもゆけると思う。