こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴー、まりんです。
「親である私自身、現在の日本の学校教育に嫌悪感があり、子どもを行かせたくありません。行かせない場合、どういったことを心がけて毎日を過ごしたらいいでしょうか?」というご質問にお答えしています。
もくじ
こどもとの暮らしで心がける3つのこと
ご質問
親である私自身、現在の日本の学校教育に嫌悪感があり、子どもを行かせたくありません。
行かせない場合、どういったことを心がけて毎日を過ごしたらいいでしょうか?
(動画より)
よっぴー:
ありがとうございます。
どういったことを心がけて毎日を過ごすか、ってなると、学校を選ぶとか教育っていうものに限らずすべてにおいてなんだけれども、親の考えとか価値観とか、そういったものをこどもに刷り込むっていうことをしないことだって思います。
親と子がひとつ屋根の下で住んでて、否応なくね、こどもにいっちゃうんですよ、刷り込みみたいなものが。
たとえば親が何気に選んでくる食材だったり食器だったり、洋服だったり観る番組だったり聴く音楽だったり言葉遣いだったり、もうなにもかもが全部こどもにいってしまうわけじゃないですか。
まして、こどもが小さい年齢のうちは、こどもの世界には親がドドンといてるから、もうほんとに親の考えや価値観が、そのままいってしまう。
親が「青がいい」って言ったら、こどももなんか「青がいい」っていうふうになってしまうし、親が「赤がいい」だったら(こどもも)「赤がいい」っていうふうに、そういう関係になってしまうじゃないですか。
だから、とってもとっても意識して、できるだけできるだけ、少しでもね、刷り込まないようにするんだ、っていう意識、心がけはすごい大事だなって思います。
親が「青がいい」って言っても、こどもは「わたしは/僕は赤がいい」って言えるような仲、「魚がいい」って言ってるのに(もう一方は)「肉がいい」、肉の中でも「鶏がいいな」って言ったら「わたし/僕は豚がいい」とかさ、
そういう関係にやはり小さいときから自然となってたらいいなって思うのね。言い合える仲っていうのかな。
「学校に行かせない場合どういうふうに心がけたらいいか」、ってときに、
1つは、学校のことを悪く言わないこと。悪口みたいなものね。それを言わないこと。
2つめは、その学校に通っている子どもたちを否定したり、ばかにするような言い方をしないこと。
3つめに、いま言った、なんでも言い合える仲っていうのかな。
それがもうとってもとっても自然に「なってる」っていうのかな、おうちの中の環境だったり関係だったり、そういうふうにしていくのがいいなあって思います。
たとえばね、すごいすごい小さなことなんだけれども、パーマ屋さん…パーマ屋さんって言わないのかな?(笑)ヘアサロンとか薬局とか、そういったところで、(お店の方から)「飴をどうぞー」とか「風船どうぞー」とか、そういうような場面ってひょこひょこあったりするじゃないですか。
そういったときに、こどもが飴を2個か3つくらいパッと取ったとするね。
そのとき親が、「だめよだめよ、そんなの一個にしなさい」とか、そういうようなことの言い方をしないってことです。
そういうことの小さな小さな積み重ねで、こどもはこどもの意見を臆することなく、怒られるとか注意されるとかなく、言えると思うのね。
でもそこで一個にしなさいって言って従わせる、子どもからしたら従う、そういうようなことをしていくと、自分の意見っていうのがやはり言えない。
そこが自由にお互い表現できるっていうのがいいなって思うので、だからちっちゃなちっちゃなところから、そういうのを心がけたらどうかなって思いました。
小・中学校は義務教育のため、いずれかの学校へ通学する・しないに関わらず(フリースクール等を含む)、公立または私立学校に就学届を提出する必要があります。
意識しておきたい2つの点
まりん:
なにを選択してもしなくても、大切なのは過程と関係です。学校や教育についても、例外ではありません。
ただ今回のような場合に意識しておきたい点としては、以下のふたつがあると思います。
ひとつは、好き嫌いを善悪に置き換えないこと。
もうひとつは、「標準」とされている型を隠さないこと。
好き嫌いを善悪に置き換えないこと
好き嫌いはいくらでもあってよくて、親が持つ好き嫌いをこどもに見える形であけっぴろげにしておくのも、ぜんぜんかまわないと思います。↑で話した赤や青、魚や肉のように、むしろ隠すほうがヘンです。
好きなもの・嫌いなものが同じであれば盛り上がる話もあるだろうし、親近感も深まるものだけど、もちろん同じじゃなくてもいいです。
相手の好きなものがめちゃくちゃ嫌いでもいいし、わたしの嫌いなものを相手がめちゃくちゃ好きでもいい。
音楽ではクラシックだけを愛する人と同じ屋根の下でロックに傾倒している人がいていいし、同じ家からモードファッションに身を包んだ人とコンサバ全開な人が出てくるのもいい。
お互いに理解や共感なんてできなくても、ちっともかまいません。
相手の好き嫌いを疑問に思うことはあれど、否定したくなったり、矯正したくなったりするのは、好き嫌いが善悪になったときです。
ロック(が好きな人)を許せなかったり、悪だと断定したり、コンサバ(が好きな人)を揶揄したり、無理にやめさせたり。
いい年をした大人どうしなら無理にやめさせるということはなかなかありませんが、親とこどもとなれば、聴いたり観たりすることを許さない・悪だと教える・揶揄する・無理にやめさせる、どれも容易に、そして安易に行われていることです。
「現在の日本の学校教育が嫌い/好き」は個々人にあったりなかったりする感覚ですが、「嫌い/好き」が「悪/善」ということになると、人は(善意でもって)あっさりと境界線を越えて、相手に行動を強制できてしまいます。だって、善悪は絶対だから、しのごの言ってられません。
でも、本当に善悪のどちらかだけに分類できるものかどうかはわからない(人それぞれだよね、という話でもなく)。
「行ってほしくない」ではなく「行かせたくない」、「行かない」ではなく「行かせない」、そこにある親の善悪と権力を自覚していけたら、学校に通い学ぶ張本人であるこどもを主軸から外さずに、選択よりもずっと手前のおしゃべりができると思います。
「標準」とされている型を隠さないこと
「普通」「常識」「当たり前」「標準」「一般的」とかってまあイヤな言葉ですが、だからといってこれを知ることは「汚れ」ではありません。
「普通」や「標準」だと知っていてなおかつ自分は「悪」だと思っていることを、親はときどきこどもから遠ざけようとするけれど、それらはこどもに隠すべきではないんですよね。
たとえば現在の学校教育は「悪」だから、こどもにはその世界を知らせないまま理想的な世界でのびのびと過ごさせよう、というのは、親の理想の世界にこどもを閉じこめておくこと(現在の学校教育には問題点・改善点があるのは事実だけど、位置付けとして「普通」や「標準」なのも事実です)。
「普通」も「標準」も「悪」も、あるいは理想も善も好き嫌いも見渡せるところで、反発でも従順でもなく自分と生きていけるというのは、心強く、とても楽しいことだと思います。
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