こんにちは、
AI-am(アイアム)の星山海琳です。
親はこどもを前にしてはじめて親になるけれど、親であれば親なのか、というと微妙な感じがします。
親にはこどもの育ちを守る役割があるけれど、同時にただの人でないといけない。こどもはとくに規範に敏感だからこそ、より非規範的なふるまいをしている親(あるいは近しい大人)がいることの大事さを思って。
親であれば親? 大人であれば大人?
親はこどもを前にしてはじめて親になる。ただたんにひとりの人として、大人として生きているあいだは就けない立場を(しかも一生をかけて)務めることになる。
でも、「なれば」親なのか、という感じはする。こどもがいれば親なのか? こどもがいるから親になれるんだし、どんな親も親であることには違いないけれど、親であれば親なのか、というと微妙になる。
それは、「なれる」ものにはお決まりの疑問だという感じもする。大人であれば大人なのか、学生であれば学生なのか、教師であれば教師なのか?
親は、立場上の親になってもなお親になろうと努力するけれど、親の型と自分を比較しつづける大人を四六時中見ているこどもというのはどんな気分だろう。
その子が、自分という生きものを広い土地に寝転がせたり走り回らせたりすることに引け目を感じたり、優越感を抱いたり、「いつか」への不安や恐怖を抱くことは、想像にかたくない。親が親であるように、こどもがこどもになることを拒めないシーンが、次々にやってくる。
規範に敏感なこども時代
こども時代ほど、人が規範に敏感な時代はない。齢を重ねてあつかましくなるというのはそういうことで(もちろん悪いことではなく)、そうでないととても生きられない、多少鈍くもならないとやっていられないという側面もある。
自分が若者だった時代には、中年になった上の世代に対してなぜこんなにも周りが見えないのか、よくもまあ長々と喋るな、と呆れつつ相槌を打っていたとしても、自分が齢をとるとあのときのおじさん・おばさんと似たようなおしゃべりの中年になっていた、みたいなことは、まあまあそれなりにあると思う(もちろんそれが取り立てて問題にならないのは、内容にもよるし年功序列が前提の環境、あるいは人との関わりの細部で言えることだから、親になればこどもを常日頃から抑えつけるのも仕方がない、そういうものだよね、ということではなくて)。
こどもはとくに規範に敏感だからこそ、より非規範的なふるまいをしている親(あるいは近しい大人)がいることの大事さを思う。
その環境のなかでこどもは、世間の規範と照らし合わせながら自分の規範を構築していける。ときどき規範化されそうになったときにも、それに気づくことができる。
結果として自分がどうふるまうにせよ、規範それ自体は見えているという状態でいられることは、こどもであれ大人であれ、重要なことだとつくづく思う。
親にはこどもの育ちを守る役割があるけれど、同時にただの人でなければいけなくて、しかもその「人」は不完全であればあるほど、規範からズレていればいるほど、それでいて周りが見えていればいるほど面白い。
完璧な親がいるとすれば、それは、まったく完璧じゃない、混沌と濁った、けれどひたむきな人間であるということなんだろうと思う。