『友だちのうちはどこ?』アッバス・キアロスタミ監督が映す「親」という扉

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こんにちは、
AI-am(アイアム)の よっぴー です。

アッバス・キアロスタミ監督のイラン映画『友だちのうちはどこ?』で、主人公の少年は、母親という分厚い扉を越えていきます。

主人公・アハマッド少年が学校から帰ってきて、従順で、惰性思考で、理解のない母親の命令に屈せず駆けていくまでの場面にある親と子の姿について、また製作時のイランの歴史的背景についても書いています。

映画『友だちのうちはどこ?』あらすじ

アッバス・キアロスタミ監督『友だちのうちはどこ?』は、タイトルの通り、友だちのうちを探す物語です。

友だちの家を探して、少年は必死で駆けていく
子どもの純朴さと不安をリアルに映し出した至福の傑作!

イラン北部の小さな村。
同級生モハマッド=レザのノートを間違えて持ち帰ってしまったアハマッド少年。「ノートを忘れたら退学だ」という先生の言葉を思い出したアハマッドは、ノートを届けに、遠く離れた友だちの家へと走り出す。
何度も道に迷い、大人たちに翻弄されるアハマッド少年の不安げな表情が、のどかな風景のなか実にスリリングに映し出される。
職業俳優を使わず、村の住人や子どもたち、実際の家や学校を用いて撮影するキアロスタミの撮影スタイルを象徴する作品であり、キアロスタミの名を世界各国に知らしめた、映画史上に輝く傑作。
アハマッドが何度も走り抜ける「ジグザグ道」の風景は、その後の作品にも受け継がれていく。

出典:ニューマスター版Blu-ray『友だちのうちはどこ?』

「母親」の分厚い扉

『友だちのうちはどこ?』製作時のイランは、イランイラク戦争の真っ只中。厳しい統制は、文学や絵画同様、映画界にもおよびます。

イラン政府の検閲は厳しく、イスラムの教えに沿ったもののみが許されましたが、文化的制約が厳しく課されるなかで、「こどもが主人公の映画」は製作を許可されていました。

主人公・アハマッド少年が学校から帰ってきて、従順で惰性思考で理解のない母親の命令に屈せず駆けていくまでの場面にある、親と子の姿について書いています。

おとなの言うことは絶対

主人公のアハマッドは、日頃、母親に「宿題をしなさい」と言われなくても宿題をするひとなんだと思うんです。

この日も「ただいま」と言って帰ってくるなり、すぐさま鞄をあけて宿題をしようとしました。

出典:Stereo Sound ONLINE

宿題をしようと鞄をあけて、教科書を出しているところで、母親に「アハマッド、おむつを取って」と言われます。

鞄から手を離し、干してあるおむつをすばやく取りにいくアハマッド。
母親は、そんなアハマッドのすばやい動きを見もせずに「早く」と言います。

おむつを母親に渡し、アハマッドは宿題に戻ろうとしますが、干してあったおむつがまだ濡れていたので、今度は「部屋から別のを持ってきて」と言われます(字幕には出ないけれど、ここでもまた「早く」と言われている)。

部屋から持ってきたおむつを渡すと、間髪を入れずに、哺乳ビンにお湯をもらってきて、、(その哺乳ビンに)砂糖を入れて、、と言われる。そして哺乳ビンを渡すや、母親は言います。「宿題しなさい」と。


このシーンにすっごくムカつくんだけど、こういった理不尽は「おとなの言うことは絶対」(後述)のイランだけの話じゃないですね。日本でも、とんでもなく失礼なことが、こどもに対しては無意識に行われています。

「早く宿題をしなさい」と繰り返すにもかかわらず、宿題をしようとしているこどもになんだかんだと用事を言いつける自分(母親)はこどもに何をしているのか、、その自覚がない(ような)のです。

手伝ってもらった、も、コキ使った、さえもない。

「おむつを取って」のほかにも、「お皿を取って」や「ティッシュを取って」「ポストを見てきて」など、暮らしのなかで親はこどもにたくさんのお願いをしていますが、多くは無意識的なんですよね。自分がお願いをしていることにさえ気がついていません。

しかも、こどもはするものと思い込んでいるから、無意識的に言った「お皿を取って」にこどもが「イヤ」と言ったときはじめて意識が起きる。そして怒り出すんですよね、親は。

親がもつ固定観念の罪

ようやく宿題ができるようになったアハマッドは、クラスメイトのノートをまちがえて自分が持ち帰ってしまったことに気づきます。

「僕 友だちのノートを持ってきちゃった」
「お母さん!」
「お母さん!」
「お母さん!」
「友だちのノートを間違えて持ってきちゃった」

洗濯をしていた母親は、ここでやっと「何?」とこたえます。

アハマッドはさらに「友だちのノートを間違えて持ってきちゃった」と言うも、母親は「先に宿題をしなさい」の一点張り。

こどもはお母さんのこころの内がわかるから、アハマッドは言うんですね。「遊びに行きたいんじゃないんだ」と。


そう、母親はこのとき、「この子は宿題をするより遊びに行きたがっている」と思い込んでいます。

こういった思い込みは罪です。「この子はこういう子」と固定してしまうと、それ以上(それ以外)の「この子」がなくなるんですよね。

わたし(親)はこどものことを知っている、わかっているという固定された観念は、こどもの変化や発展、あんな面もある、こんな面もあるといった球体を見えなくさせます。親と子ふたりの関係は育まれません。


『友だちのうちはどこ?』製作下から現在にかけて、イランはイスラム原理主義の体制です。

原理主義とは、「単一の価値観だけを信奉し、他者の価値観を排撃する」という意味をもつそうですが、権力をもつ親が、自分の単一の価値観だけでこどもを見たり、測ったりしていては、あっちの水やこっちの水を飲んでみたいこどもの好奇心、その学びの自由を妨げてしまいます。

「先生のなさることは正しいか?」従順に思考はない

母親は、こどもは遊びに行きたいから、よくわからないことをゴチャゴチャ言っている、そう思い込んでいました。

けれど、アハマッドが何度も何度も「友だちのノートを間違えて持ってきちゃった」「友だちにノートを返さなくちゃ」「ノートを返さないと友だちが困るんだよ」と訴え、自分のノートと、友だちのノート、そっくりな2冊のノートを見せて説明したことで、母親はやっと思い込みが外れます。

↓↓ このシーンはBlu-rayのパッケージにも使われています ↓↓


母親は、さっきまでとは違い、やわらかな口調でききます。

「どういう事?」
「返しに行く」
「明日にしなさい」
「ノートに書かないと先生に退学にされるんだ」
「先生のなさることは正しいよ」
「でも僕のせいだよ」
「不注意だからよ」
「そっくりだもの」

確かに、と思ったのか、母親は一瞬、考えこみます。その間すこしの沈黙があり…

「明日 返せばいいんでしょ」
「今日じゃなきゃ退学になる」
「家は?」
「ポシュテ」
「そんなに遠いの? とっても行けないよ」
「大勢の子がかよってきてるんだよ」
「嘘 言いなさい」
「嘘じゃないよ」

ここから母親は、一転してまた不機嫌になり、「いいから さっさと宿題しなさい」
それでもあきらめずに訴えかけるアハマッドに、母親は声をあらげます。

「宿題しなさい!」
「宿題が先よ!」
「宿題!」
「早く宿題しなさい 言う事きかないと ぶつよ」
「後でパンを買ってきて」
「父さんが帰ってきたら叱ってもらうよ」


ゲーム禁止をする親が知っておくべき悪影響と、非民主的な人間を育ててしまう危険性』の記事でも書いたことなんだけど、単一の価値観、単一の生活様式しか許容できない上の人(親)の言う通りに従っていると、単一外でなにか問題がおこったとき、どうしたらいいのかわからず、思考は停止し、それを解決する力が育ちにくくなります。

アハマッドのお母さんが怒り出すのは、友だちの家がポシュテ(村の名前)だと知ってからです。

友だちの家がポシュテだったことはお母さんにとっては想定外で、お手上げだったのでしょう(80年代当時、イランの地方の村で、女性が自分の住む地域外に出ることはご法度に近いようなことだったのかもしれません。法や宗教に縛りのない日本でさえも、今も自分が住む地域から出ない人、出たくない人、出たことがない人は少なくないしね)。

上に立つ者は、問題が解決できないと悟ったとき、できない理由を率直に述べるのではなく、怒りをふくんだ口調や態度で、自身がもつ規定、安心の枠に下の者を封じ込めようとしてしまいがちです。

ここでは、その表れが「後でパンを買ってきて」でしょう。トドメに「父さんが帰ってきたら叱ってもらうよ」と脅しまでかけて。

理由ある反抗

でもこどもは、駆け出した。
お母さんに怒られても、考えることをやめずに、扉を開いて、自分が動いた。

お母さんに相談してもわかってもらえず、親の目を盗んでアハマッドは家を飛び出します。
でもこの母親は、わからないことはわからないという態度でいたんですよね。だからアハマッドは、従順ではなく、理由ある反抗ができた。これ、とってもいいなぁと思うのです。


昨今の流行りなのかなんなのか、たとえば「遊ぶ前に宿題しなさい」も、怒ってはいけないんだ、、と、

  1. こどもの言動に共感(のふり)をして(あげて)
  2. それがイケナイ理由を説明して
  3. 命令ではなく「~しようね」とやさしく提案する
  4. (で、従わせる)

といった上司術みたいなやり方のしつけ法を多くみかけます。

共感してもらえると、従いたくなるんだそうです。主体性は眠り、逆らう気も生じないってわけです。


アハマッドのお母さんは、わからないものをわかったふりをして共感なんてしなかった。
わかったふりをして、よき理解者であろうとしなかった。

真っ向からこどもを否定したんですよね。だからアハマッドは主体で動くことができたのです。

母親という分厚い扉を越えた。

考えることをやめるな!

自由をとりもどすためには、服従を拒否して、「考える」をしなければいけないじゃないですか。

親が言ったから、、指導者がそう言ったから、、そんな理由で従順でいることの危険さ、体制に順応する危険さ、思考の惰性や停止の危険さを、アッバス・キアロスタミ監督は伝えたかったのじゃないのかな。

母親という分厚い扉を越えたアハマッド。
『友だちのうちはどこ?』は、考えることをやめるなと言いながら、「ジグザグ道」を何度も走り抜けるのです。


木製の扉職人だったおじいさんがアハマッドに差し出した一輪の花は、鉄の扉を開いていく明日への希望なのでしょう。

閉まっている扉から映画ははじまり、夜、アハマッドが宿題をはじめたときに扉はバーンと開きます。そしてラストです!

『友だちのうちはどこ?』製作時のイランの歴史的背景

『友だちのうちはどこ?』を観ていると、おとなたちのありようにムカムカと怒りを覚えます。
それはホメイニ師を最高指導者とするイラン新政権時代に製作されたこの映画が、イランの政治構造や社会構造、人権問題への批判を映し出しているからじゃないのかな、と思うのです。


1979年のイラン=イスラム革命により、イランは王政を打倒し、イスラム教シーア派の宗教指導者ホメイニ師を(司法・立法・行政の三権を超える)最高指導者とする、イスラム原理主義に貫かれたイスラム共和制の政治体制を成立します。

イランでは選挙で大統領が選ばれますが、最高指導者に権力の絶対性があるため、政府は(というか政府でさえ)外交・安全保障政策もすべて最高指導者の意に従う構造です。

鉄の性質の国家政策

ホメイニ師への忠誠は絶対。
つまり上の者への忠誠は絶対で、下の者は従うのみです。

アハマッドのお祖父さんが、孫であるアハマッドにたばこを持ってこいと言うシーンで、「孫」に隷従を強いる台詞はまさに典型的ですね。
アハマッドは、お母さん(お祖父さんから見たら息子の嫁)に頼まれたパンを買いに行かなくちゃ、と言っても、お祖父さんは耳をかしません。お母さんがお母さんだからでしょう。嫁だからでしょう、女だからでしょう。

出典:洋画専門チャンネル ザ・シネマ


映画のなかで、観ているわたしまでが身をきられる想いで息がとまりそうになったのは、このたばこのあと、ノートのシーンです。

鉄製の扉商人のおじさんの態度は、イラン政治体制の象徴なんでしょうね。
鉄製扉商人のおじさんには下の者(アハマッド)の声がまったく聞こえません。存在すら目に入っていません。(アハマッドの)いのちを削っていることに微塵も気がいきません。

鉄の性質の国家政策、イスラム共和制に移行したイラン=イスラム革命。

映画『友だちのうちはどこ?』には、“扉” や “窓” のモチーフがいたる場面で出てきます。
鉄製の扉商人のおじさんと、木製の扉職人だったおじいさんの対比は、イラン=イスラム革命前後の対比でしょう。
イラン=イスラム革命前のパーレビ王政時代のイランは、中東一の親米国で、西洋化が進み、服装なども自由でした。


イランとコーカサスに行ったときの旅日記(ヒジャブを被るのに四苦八苦している写真がのっています↓↓)


※西洋化が進み、、、とあるけれど、1960年代、パーレビ王政のパフラヴィー2世は強権的に西洋化(近代化)を推進する「白色革命」を実行。
けれども潤ったのは国王周辺や都市部住民ばかりで、地方や貧困層は取り残され、貧富の差の拡大が問題になります。
70年代ではさらにオイルショック後の富の不公平な分配などにより、国内全体で不満は高まっていく。これら不満の蓄積から1979年、民衆によるイラン=イスラム革命が起きたのでした。
が、これまたその結果は、現在も続く鉄の性質の「イスラム共和制」の統治です。

映画『友だちのうちはどこ?』上映情報

『友だちのうちはどこ?』を含むアッバス・キアロスタミ監督の7作品のデジタル・リマスター版が、現在全国の映画館で上映中です。

「そしてキアロスタミはつづく」公式サイト

「そしてキアロスタミはつづく」

また、Amazonプライムビデオでも、『友だちのうちはどこ?』ほかアッバス・キアロスタミ監督の作品が配信されています。

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『友だちのうちはどこ?』が日本で公開されたのは1993年。

アッバス・キアロスタミ監督が小津安二郎監督の大ファンであることを公言していたこともあってか、1993年のキネマ旬報ベスト・テンの8位に選ばれています。

また、2005年にイギリスの英国映画協会(BFI)が発表した「14歳までに観ておきたい50の映画」では5位に選ばれています。
(ちなみに1位は『千と千尋の神隠し』、2位は『オズの魔法使』、3位『大人は判ってくれない』、4位『狩人の夜』だそうです。>>> https://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-356395/The-50-films-age-14.html

『友だちのうちはどこ?』

原題:KHANE-YE DOUST KODJAST?
製作国:イラン
監督・脚本・編集:アッバス・キアロスタミ
撮影:ファルハッド・サバ
録音:ジャハンギール・ミルシェカリ
美術:レザ・ナミ
出演:ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダバフシュ・デファイ、イラン・オタリ
公開年:イラン/1987年(日本/1993年)
上映時間:84分

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