親は子どもの前に立ち、率先していくことで、本来「ある」ものを「ない」にしてしまうことがあります。
それは「生きる力」とか「考える力」みたいな能力よりもずっと飾り気のない、「その人が生きているということそれ自体」。
先日、ある病院で見かけた親子(っぽい)ふたりの様子から、そんなことを考えていました。
子どもに次の行動を教える目と手
このあいだ小さな病院で、親子らしき男性ふたりと居合わせた。実際に親子かどうかはわからないけど、ひとまず親子ということにしておく。
院内に入ってすぐのところで、まず父親が子ども(中学生か、高校生くらい)に、診察券と保険証を準備するように言う。威圧的な感じではなくて、けれど手と目がとてもよく動く。
子どものほうは、言われたように、自分の鞄から財布を取り出して、準備する。
入り口から受付まではほんの5、6歩の距離だけれども、父親は子どもに自分の姿を見せるようにして前を歩いていく。
受付のスタッフの方にひかえめな挨拶をして、それから斜めに振り返って、子どもに行動を促し、彼が診察券と保険証を提出するのを見守る。
ひとつのタスクを無事に終えたような顔で、次に父親は、待合室のいちばん近い椅子に目をやり、そこに座るように促す。
促してばかりなのは、別に「そこに座りなさい」みたいな命令をしているわけではないからで、ただ手と目が、心許なさそうによく動いて、子どもに次の行動を教えている。
親が率先していけば、子どもは後ろを追うしかない
子どもの年齢からするとあまり見ない光景で、珍しいなと思った。
病院自体がはじめてだったのか(でも診察券を持っているからおそらく違う)、ひどく具合が悪いか(落ち着かなさそうな父親に反して子ども自身はけっこうけろっとしていたのでおそらく違う)、子どものほうは日本語がわからないとか、言語障害があるとか(椅子に座ってからは父親と日本語でほがらかに会話をしているのが聞こえたのでこれもおそらく違う)、はたまた、と、ぼんやり考えていた。
勝手にあれこれと推測するのは失礼だけれども、わたしも暇だったので。やがて呼ばれた子どもの名前にも、父親が返事をして、率先していった。
単にそういう性格どうしの二人なのかもしれないし、そうでなくても事情があるのかもしれないし、なにか障害があるのかもしれないし(医学的なものであれ、広義のものであれ)、そもそも親子でもないかもしれないし、実際のことはわたしにはわからない。
で、実際の彼らにどんな理由があってもなくてもどうであっても、それはどうでもいいのだけれど、一般的に、その父親の仕草と似たことを(多かれ少なかれ)親はやりがちだなー、と思う。
誰が誰を生きるのか?
この社会へ生まれてきて間もない子どもとか、まったく異なった文化で育った人に付き添うならともかく、自らの経験からあるていど「わかっている」人の前に立つのは、その人の力を奪っていくことになってしまう。
力というのは、「生きる力」「考える力」みたいな能力よりもさらに視点を引いた、「その人が生きているということそれ自体」みたいなもので、ボールペンの芯を抜くとか、照明から電球を取り去るとか、存在にかかわることだと思う(まあ、ペンや照明なら、実用できなくてもインテリアにはなる……けど、人間はそうもいかない)。そうすると、誰が生きているのか、よくわからない。
まだ全然なんにも知らない、ではなく、ただ未熟であったり、おぼつかないだけの子どもの前に立って次々に轍を引いていくのは、子どもを想ってというよりは、そもそも親自身が未熟さやおぼつかなさを恐れているからでもある。
失敗と成功の二択ではなく
失敗は成功のもと、失敗が大事、などというけれど、失敗と成功の二択なら、みんな成功のほうが好きだ。失敗を楽しむ人や恐れない人はそこそこにいても、失敗を選びたい人や、失敗ばかりしていたい人は、たぶんいない。
だから親にも、子どもを「失敗させない」ことへの執念を感じるときがある。「失敗させる」という表現まであって世も末、と思うけれどそれだって「失敗させない」を長期的にやっているわけで、あまり違わない。
趣味や好み、時間やお金の使い方が人それぞれであるように、その場で自分の保護下にある人のなにをどう守りたいかも人それぞれだけれども、おぼつかなくて心許ないのも、進んで失敗したくないのもお互いさまで、だからこそ、無いものにはしたくないなと思います。なにをというと、「その人が生きているということそれ自体」を。