こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山 海琳 です。
不登校に対する風向きはずいぶん変わった。
わたしが学校に行くのをやめたのは16年くらい前になるけど、そのころは、責めたり同情するよりも先に「触れてはいけないこと」みたいな風が吹いていたと思う。
そのころよりも、いまは学校に行っていない子とその外野のひとたちとの距離が、うんと近づいた。
最近は、”学校に行けなかった“ ひとが表に立つことが増えて、いま “学校に行けない“ 人びとへ、メッセージや支援を送っている。
それは、「あのときは絶望的だったけどいまはこんなに希望がある」とか。「つらかったけど振り返ってみればいい機会だった」とか、「くるしかったけど、あの日々がいまの自分をつくってくれた」とか。
成功者っぽい顔つきで、トンネルのなかにいて、いまは暗いけど、出口がある。君にも、と。
わたしは、”それ“ じゃないなあ、と思う。
“それ” じゃあたぶん、変わんないのだ。
肯定された気分になったり(現状ではまだ必要なことかもしれないけど)、成功例を求めたりしていても。
社会と、そこに住むわたしたちの意識が根っから変化していくには、時間がかかるかもしれない。
でも根本を見なければ、わたしたちは結局変わらない。
トンネルはいくつもいくつも連なる。
出口を夢みながら耐え忍ぶ力を身につけるよりも、トンネルを建てなくていい道路にしたほうがよくないか、と、思っている(それは、学校ではなく家庭によって)。
せめて自分たちの手が及ぶ事柄くらいは。
わたしは、失敗も成功もしてない。
不登校は、不幸なことでもなければ幸福なことでもない。
暗いことでもなければ、明るいことでもない。
マイナスでもないし、プラスでもない。
ハンデでも、特権でもない。
「不登校の子には可能性がある」とか、「実は才能をもっている」なんてのは大きな勘違いで、可能性や才能というやつは、登校していようがしていまいが、働いていようがいまいが、すべての人間にある。
本当に、そう。
孤独でくるしい不登校を ”克服” して、”乗り越えた” ひとがいることは、必ずしも救いにはならない。
トンネルをつくらなければそれらは必要ないはずなのに、まるで克服することや乗り越えることが唯一のルートだと思わせてしまう。
そして成功することや、善良であることに、正しさを見出す。
だからこそ、わたしたちは家庭のことを、親と子のことを、しつこく、書いたり喋ったりするんだろうなあと思って……そんなことを、きのう思いました。おわり。