「誰にでも起こりうる不登校」への偏見、アンコンシャス・バイアスを取り払おう

こんにちは、AI-am(アイアム) よっぴー です。

文部省は1992年に「登校拒否(不登校)は誰にでも起こりうる」と発表しました。

登校拒否(不登校)はどの子にでも起こりうり、それは当事者のこどもや親のせいではないよ、となった。

けれども現実はどうか?

いまもって根強い不登校への偏見と思い込み(アンコンシャス・バイアス unconscious bias)はあります。それがためにこどもたち、親たちは「不登校」で苦しんでしまいます。

だったら、だから、この 不登校へのアンコンシャス・バイアス(偏見と思い込み)を取り払おう。

一条校以外の就学先が公的に認められていないことも含め、当事者であるこどもが教える現実を、ないものにしない社会 にしていくところからはじめませんか?

不登校への偏見と思い込み

「学校恐怖症」から「学校ぎらい」「登校拒否」と経て、呼び名が変わってきた「不登校」。

1992年(平成4年)に文部省(現:文部科学省)はそれまで、子どもの性格に問題があるとか、親の養育態度に問題があるとしていた登校拒否観について、「登校拒否は誰にでも起こりうる」と認識の転換を示しました。

※文部省は1989年(平成元年)に有識者による「学校不適応対策調査研究協力者会議」を発足し、不登校問題への対応対策を検討していきます。1992年に「登校拒否はどの児童生徒でも起こりうる」と発表したことで、呼称が「不登校」という表現に変わっていくのでした。

 

以降、不登校への偏見や思い込みは、92年以前のそれと比べると幾分かは和らぎました。

しかしながら「不登校は誰にでも起こりうるよ」と言われても、いまもって不登校に対しては根強いアンコンシャス・バイアス(偏見と思い込み)があるのが現状ではないでしょうか。

 

不登校へのアンコンシャス・バイアス

不登校に対して、どんな偏見や思い込みがあるでしょう。わたしたちがこれまでに見聞きしてきたものをあげてみます。

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  • 不登校は悪いこと
  • 不登校は甘え
  • 不登校は怠け
  • 不登校はさぼり
  • 不登校はわがまま
  • 不登校はダメな子
  • 不登校は恥ずかしいこと
  • 不登校はかわいそう
  • 不登校は哀れ
  • 不登校は心の病い
  • 不登校は不安定な子
  • 不登校は逃げ癖が身につく
  • 不登校は問題のある家庭
  • 不登校は後悔するに決まっている
  • 不登校は卒業できない
  • 不登校は進学できない
  • 不登校は助けてあげなければいけない
  • etc、etc

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不登校に対して否定的な偏見があるため、親や教師は他罰的になりやすく、そのため、当事者のこどもは自罰的な思い込みをもってしてしまいます。

こういった不登校へのアンコンシャス・バイアスがあるから、「不登校」で苦しむ
だったら、不登校へのアンコンシャス・バイアスを取り払っていけばいい!

不登校へのアンコンシャス・バイアスを取り払おう

京都府八幡市人権啓発課がご依頼くださった講演「あるがまま 〜アンコンシャス・バイアスの壁をとりはらおう〜」。
このテーマをいただいたとき、すっごい! って思ったんですね。すべてに通じるよなって思った。

八幡市からのご依頼は「『親と子のタテではなくヨコの関係』についてお話ししてほしい」という内容だったので、講演では「こどもへのアンコンシャス・バイアスを知ろう」「こどもにアンコンシャス・バイアスを受け継がせないでいよう」の2点をお話したのだけど、参加されていたお父さん、お母さんはもとより、おじいちゃん、おばあちゃんも真摯に耳をかたむけてくれてたんですね。

「ほ〜、なるほど! それはこどもへのアンコンシャス・バイアスか」
「そうだな、こどももおとなも同じだな」
「今日からは『こども』という括りで、こども(孫や地域のこどもたち)を見るのはやめていこう」

などなど(もちろん、わたしたちの話すことに反発を感じたかたもいらっしゃったと思います。それはそれでいい。ただそれでも「こどもへのアンコンシャス・バイアス」というものに対して)昨日まで知らなかったことを知っていく。アンコンシャス・バイアスの壁が取り払われていく……。

この講演会のレポートはこちら
>>> https://ai-am.net/210629ev-report

 

話をきいてくださっているその姿をまのあたりにして、「不登校へのアンコンシャス・バイアスの壁をとりはらおう」も進んでいけばなあ、と思ったのでした。

国が行う不登校支援は不登校の数減らし

不登校支援を、と言うけれど、その「支援」は、こどもたち本人から出た訴えを受けた結果の内容ではないんですよね。

1950年から現在にいたるまで、国が行う不登校支援は不登校の数減らしです。

数値目標に基づく不登校支援は、強迫的登校(行きたくないのに嫌々登校)をしているこどもたちや、さまざまな形の不登校をしているこどもたち、親たちに脅威をあたえ、苦しめます。

当事者が社会の現実を教える

すこし話が逸れるのだけど。

たとえば歩道と車道との段差は2cmと定めている「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(2006年に施行。通称:バリアフリー新法)

車いす使用者にとっては、段差はないほうが望ましいです。けれど視覚障害者にとっては段差がないと境目がわからず、命の危険にもつながります。
そこで、双方が安全な通行ができるよう、段差について当事者とともに議論と検討を重ねるんですね。その結果、車いすで昇り降りができ、白杖で確認ができる「2センチ」となったそうです。

 

また、いまから40年ほど前のこと。
半身不随になり車いすを使用するようになったわたしの父は、駅のエレベーター設置願いをはじめ、ことあるごとに役所へ赴いて、

「歩道と車道の段差、低くせんかい。車いすやったら通られへん。お前らだけの道路やないぞ」
「歩道のポールどけやんと通られへんやろが。車いすの幅はかってんのか。お前らなんでもかんでも自分の基準でやっとる場合やないぞ。なんのための歩道や」
「自販機のボタンもっと低くせな届かへんやんけ」
「こんな背高い窓口じゃ見えへんがな」

などなどと言いに行っていました。

 

車いす使用者と視覚障害者を交えて話し合っていったことも、車いす使用者の父が言いに行っていたことも、当事者による要求なんですよね。言い換えれば、当事者からしか見えない欠如です。
当事者以外は無関心でいいということでは決してないし、想像してみることはできる。けれど、自らの足で歩ける人では、目で見える人ではわからないことがある

父と母が車いす使用者になったころは、車いす使用の人は電車にもバスにも乗れない時代でした。また当時は、車いす使用でショッピングや食事をたのしみに街へくりだす人も稀でした。

当事者の方たちが現実を教え、社会を様変わりさせてきました(車いすだけのことではなくね)

こどもたちは「自販機のボタンが届かないよ」と言ったのに

ところがです。

こどもが「自販機のボタンが届かないよ〜」と言えば、返ってくる言葉はおおむね、「こどもがそんなの押さなくていい」とか「こどもが選ぶ必要はない」とか、「大きくなったら届くよ」

なんならオマケに「だからちゃんとごはん食べようね、勉強しようね」までもれなく付いてきます。

 

こども差別、こども蔑視が、こどもへのアンコンシャス・バイアスの壁となって、自分(こども)の声をかき消しちゃうんですよね。こどもは日々くりかえし、くりかえし、この経験をしていきます。

死にたいほど苦痛な学校に不登校をしたくてもできずに、ギリギリで今日も登校(・登園)しているこどもがいます。学校に行けない自分を責め、毎日「消えたい」と思って過ごしているこどもがいます。ある日、止まるこどもがいます。

こどもたちは「自販機のボタンが届かないよ」と言ったのに。

不登校は誰にでも起こりうる?

けれども、自らの足で歩ける人にはわからない。目で見える人にはわからない。

国は、不登校という現象が生まれてくる原因、および原因の究明にはまったく手をつけません

 

不登校は誰にでも起こりうる?

おいおい、ちょと待てや、ですよ。誰にでも起こりうると、国が言ってどうすんの? ですよ、まったくもう!

 

不登校(登校拒否)は、個人の問題ではなく「どの子にも起こりうる」という見解になった1992年の「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告。
個人の問題ではないと言いつつ、見解の根本は「学校不適応」なんですよね。不適応を起こしているのは子どもではなく学校なのに、問題を社会に帰しません。

「適応指導教室」(教育支援センター)もしかり、通学を登校と認め、学校への適応を促します。わるいのは僕/私のほう……と思い込ませます。

これじゃ、「不登校」が偏見まみれになるのも無理はありません。「不登校」へのアンコンシャス・バイアスの壁は高くなるいっぽうです。

 

一条校以外の就学先が公的に認められていないことも含め、当事者であるこどもが教える現実を、ないものにしない社会にしていくところからはじめませんか(こどもの声に耳を傾ける、なんてのは(傾けられるのは)そのあとのことです)

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子どもの気持ちは、どうすれば「聞ける」んだろう? ー 「訊く」と「聞こえてくる」について

 

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