こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
「学び」は人の数だけあって、
そのなかの一人ひとりに、これまた無限の学びがあります。
「多様な学びの選択肢を奪われている」と前回の記事で書いてはいますが、
そもそも学びは多様なのです。
国が「不登校」を問題にする理由を知って、
考えてみませんか?
もくじ
消した想い
『塩専売制度廃止と塩の完全自由化の歴史は「精製塩・自然塩」「公教育・自由教育」の選択自由を応援する』の記事のおわりのほうで、
こんなことを書きました。↓↓↓
そうして森さんが確立しようとした人材育成・経済主義教育は、いまもつづいています。
学校に行く・行かないの自由は、大きな声ではやはり知らされません。
知らされないまま、多様な学びの選択肢を奪われている人はあまりに多いです。
この一文 ↑ を書いたあと、ぶわぶわあっと湧き出た想いも綴っていたんだけど、
『塩専売制度廃止と塩の完全自由化の歴史は「精製塩・自然塩」「公教育・自由教育」の選択自由を応援する』の投稿の際には、その箇所は消しました。
その消した想いを、今日は載せさせていただきます。
(ほとんど修正なしでのアップゆえ、関西弁のままで読みづらいかとおもいます^^;;; が、読んでもらえたらうれしいです)
「不登校」を問題とする
多様な学びの選択を奪っておいて、
国が用意した公の教育を受けへんかったら、「不登校」とする。
「不登校」なんて名前をつけて、あたかも「不登校」はよろしくないイメージを植え付けていく。
こどもにもやけど、保護者の対応として「不登校カウンセラー」なんてのを設けるようにもなった。
不登校に詳しい臨床心理士や、精神科医、学校や行政の担当者などと相談しつつ、専門的に解決していくらしい。
「不登校」は問題やから。
「不登校」を問題とすることが問題
むかしは「学校恐怖症」って呼称やった。
「登校拒否」に変わり、
いまは「不登校」やけど、
そのどれもが、神経症や精神、こころの病気の一種と とらえてしまうように仕向けられている。
「塩分のとりすぎには注意しましょう」って言われると、イコール、「塩をとりすぎちゃダメなんだ」ってふうにとらえてしまうのといっしゃや。
国が用意した公の教育(または「学校」)が合わへんだけやで。
「学び」は人の数だけあって、そのなかの一人ひとりに、これまた無限の学びがあるねんで。
よそん家に行って、そこでごはんをよばれたときに、味が濃くって/薄くって、わたしには合えへんなあってなってるだけやで。
それでもごはんをよばれることが1回きりやねんやったら、がまんして食べる人もいるやろけど、それが毎日ってなったらどーやろ?
それ、神経症や精神、こころの病気か?
忍耐力、たりひんことか?
経済主義、金主主義に育てられたから、「不登校」になったら、将来を心配してしまう。(教育は成功しているな)
学校を出なかったら将来はない、と思いこまされている。
なんで?
なんで、「不登校」は問題なん?
そのカラクリ、今一度、よー考えてみーひん?
国が「不登校」を問題にする理由
どんな手をつかってでも、国は、国にとって都合のよい人をつくるし、
国がつくる社会に適合するこどもに育てなきゃとおもうんなら、育てたらいい。
↓↓↓ 『女王の教室』。今なら確実に放送できない内容ですね。
いい加減、目覚めなさい。
日本という国は、
特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が安い給料で働き、
高い税金を払うことで成り立っているんです。そういう特権階級の人たちが、
あなたたちに何を望んでるか知ってる?今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、
会社に入ったら上司の言うことをおとなしく聞いて、
戦争が始まったら、
真っ先に危険なところへ行って戦ってくればいいの。引用:女王の教室1話
国が「不登校」を問題にする理由は、
■ 学校に行って、ぼぉ〜としといてもらいたいから。
■ 勉強や宿題におわれて、「考える」時間や、「感じる」時間をもたんといてもらいたいから。
■ 学校の、教室の、ある一定のところに閉じ込めといたら管理、監視しやすいから。
■ 一定の定規のうえにいてもらわんと「比較」がでけへんから。
■ せやないと、篩(ふるい)にかけられへんようになるから。
■ だれやって、大勢のこどもの面倒をみなきゃいけないってなったら、おーーーーーーーーきな公園でてんでばらばらより、パッと見て全員が見渡せられるほどの小さな小さな公園のほうが都合ええやん。
なんでかって言うたら、うちらやったら、そのほうが危ないこととか、ケガさせんようにとかやけど、
国はちがう。
■ 一握りのエリートさがしと、残りのうちらをすてこまに育てやなあかん。
■ どちらも従順に。
■ 不当なことでも黙って従う大人になってもらわなあかん。
競争原理を超えて
でも、
あれ? たしかに。
そうかな? そんな社会ってイヤだな。
そんなふうにおもうのなら、
こどもを社会に合わせるように育てるんじゃなくて、
おとながこどもに学んで、
そんな社会はヘンだ! 窮屈だ! って声に出して(政治運動をしろって言う意味じゃなくて、自分が自分に表明するって意味)、
社会を変えていく。
認識を変えていく。
意識を変えていく。
読む本を変えていく。
今日、会う人を変えていく。
「不登校」は核心にふれられるチャンス
問題のあるこどもはいないんよ。
こどもをいじくりまわす権利なんかないねん。
どんなこどもも、それでええねん。
それがええねん。
そんな社会に、そんな意識にしていく。
そんな意識を持たせてくれる一つが、わが子の「不登校」やとおもう。
こどもが学校に行かなくなって、家でなんもしなくなって、、、って言う人は、
こどもだけじゃなく、親もまた「夏休み」にホッとする気持ちがあるような人は、
実は人生最大のチャンスのなかにいる!
ホンマにすっごいチャンスのなかにおるねんで。
変わったんや。
変化しつづけることが安定
そう、変わったんです。
たとえば、
わたしだって、昨日(過去)のわたしと、今日のわたしはちがう。
考え方も好みも言うことも変わっていく。
たとえば、
「あの人は××で、○○じゃない」っておもった あの人も、今日 会えば 〇〇になってたりする。
〇〇 超えて、☆☆やったりする。
そんなことなんてザラにある。
そんなことが生きてる証。
変化しつづけることが安定。
制服を着て登校しているこども達を見ると悲しくて、、、
かたや 自分ちのこどもは…… となっちゃう親は多いとおもう。
ええやん、それで。
(ええやん、それで。っていうのは、そうおもうんやったら、それでいい、って意味です。そんな自分じゃあかんねん、とか、かなしんだりしたらあかんねん、とか思わなくていい。そんなんおもうってことは、「不登校」をあかんっておもってるからやん、とか、こどもを肯定できてないからやん、とかってふうにおもわんでいい。そんなジャッジをくださんでいい。
制服を着て登校しているこども達を見ると悲しくて、、、
それでいい。)
それって、変わったからやん?!
昨日と今日が変わったからやん。
学ぶ喜び。
わからないことがわかることで成長する学び。
変わるんよ。
変わったんよ。
今日の本
競争原理を超えて: ひとりひとりを生かす教育/遠山 啓
教育に競争は本当に必要なのか?ということについて追究した本。テストの点数による序列・選別は、貴賎・貧富につぐ第三の差別である。この賢愚による差別を生む序列主義を超えて、自立する人間を育てる教育・学問のあり方を追求する。朝日新聞評……テストや評価ということの本質に迫って読む人を思わずはっとさせる。
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