こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
服がなじむ、器となじむ、人になじむ。時間をかけて浸かり、「そうなる」ことについて。
服が身体になじむということ
あこがれのファッションを模倣からはじめると、しばらくの間は本人にとっても傍目から見ても、ちょっと浮いている感じというか、がんばっている感じ、服と身体が分かれている感じがする。
それはあこがれたファッションではないのだけど、その時間をかけて、服は身体になじみ、自然体なようすを醸し出すようになる。「あの人らしいスタイル」ができあがっていく。
手に入れるだけ手に入れて、着ずに毎日眺めたり、ましてやクローゼットに眠らせていても、身体とくっついてはくれない。
あこがれて、がんばって、着続けるうちに、それが自分となじんでくる(わたしはふだん洋服を着るので、たとえば和装をしてみると、身体とくっつくまでにかなり時間がかかるのだろうなと想像がつく)。
親切になりたい人が、親切な人になるまで
生活用品ひとつとってもそう。新しい雰囲気のマグカップや、いつもよりもちょっと高級な器。
はじめは新鮮にかがやいて、どこかお客さんのようでもあったものに、少しずつ生活の色が移る。
のせた食べものの数、洗った回数、使って、触れた時間とともに、なじんでいく。はじめよりも、ずっとかわいくて渋い光をまとう。
こんな人間になりたいという思いも同じなんだろうな、と思う。
いつも親切でありたい、知的でありたい、垣根のない人でありたい、……etc。なりたいと思って、いきなりそうなることはできない。
わざとらしい親切をふりまいて、なんか必死な感じになってしまうこともあるかもしれない。知性を勘違いして、他人を見下してしまう時期があるかもしれない。とっつきやすさを超えて、面倒なおせっかいを繰り広げてしまうかもしれない。
わたしたちは悩む。はたしてこれでいいのか、親切って本当にこういうことか? 理想とする優しさが、賢さが、どうすれば身につけられるんだろう?
悩みながら工夫しながら、失敗を反芻したり考えたり、しがみついたり手放したり、そうしているうちに気づくとなじんでいる。
身につけるものではなかったのだと、やがて思う。染めものをするように、次の季節まで果実を漬けるように、ひたること。触れ続けること、ともにあり続けることで、「そうなっている」。
心ひかれたものに向かう純粋さ
そういうことが、家庭にもいえるんだろう。
やりかたならすぐに変えられても、親がそれまでとありかたを変えるのは長い時間を要することだし、
こどもを、というより他者を自分と区別して、尊重していくというのは(それになじんでこなかった人には)、なじみなおすのにも苦労する。
がんばる姿は美しいなどと言いますが、それは心ひかれたものに向かう純粋さのこと、と思う。損得やメリット・デメリット、ネガポジや善悪を超えて、自分や他者に愛をかける真摯さのこと。