こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
こどもが不登校をしているとき、「どうすれば学校に戻れるか?」「ゲームやYouTubeではなく、昔のように外遊びをする子になるには?」「どうやったら自信を取り戻せるか?」といったふうに親は悩みがちです。
わたしたちは過去と現在のあいだで比較をすることしかできません。けれど、不登校をしていたこどもが登校をするようになったら「元通り」なんて、つまらない話です。
「以前」に戻るのではなく、新たにそう「なる」のだというふうに考えてみれば、同じ悩みも、なんとなく開放的に悩むことができます。
「こどもが不登校をしていて、どうすれば学校に戻れるか…」
「こどもが不登校をしていて、どうすれば学校に戻れるか、どうやったら治るか…」
「不登校をするまでは外遊びが大好きな風の子だったのに、最近は家でずっとゲームをしたりYouTubeを見ていて、どうすれば外遊びを再開してくれるか、無邪気に笑ってくれるか…」
「不登校をしてから自信がない、どうすれば自信を取り戻せるか…」
などなど、「不登校」およびそこから派生した親さんの悩みの多くは、「以前」と比較したものです。
以前のように通えるには、
以前のように遊ぶには、
以前のように元気になるには……。
この「比較」と、そこへ「戻る」ことを想定した考えかたを少し変えてみると、同じ悩みでも、その心模様はずいぶん変わるのでは、と思うのです。
過去と現在を比較することはできるけれど
人は比較をするものです。人を、家を、仕事を、色や価格やデザインを、味、洋服、街、とにかくあらゆるものを。
そんなふうに比較をするから、わたしたちには自分があり他人があり、個性があり、好き嫌いや選択がある。差ではなく異としてのちがいは、とても大切で、わたしたちの豊かさには欠かせないものです。
けれど、とある誰か、ひとりの人間を比較するという場合にあるのは過去と現在だけで、未来との比較はできません。
そこで、こどもを想う親のように過去と現在を比較して、しばしば「以前のように」なることを願うのだけれど、これはなかなかうまくいきません。
人は、過去と現在を比較することはできても、過去に戻ることや、現在を過去で置き換えることはできないからです。
次に得る自信は、前とはちがう、新しいもの
たとえば、不登校から登校の状態に変化する というのは、
「学校に戻る」ことじゃなく「学校に行く」ことで、
「不登校が治る」ことじゃなく「登校をする」こと だと思うんです。
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たとえば家にこもりがちで、なんとなく表情も乏しく、体を動かして遊ぶということをあまりしなくなったこどもが、外へ出て跳んだり走ったりするというのは、
「以前の無邪気さを取り戻す」のではなく、ただ「笑ったりはしゃいだりする」ことで、
「以前のように元気になる」のではなく、ただ「元気になる」こと。
陽気な時期があって、陽気ではない時期があって、陽気な時期がある。
外で遊び回る時期があって、内側を味わう時期があって、外で遊び回る時期がある。
朝になって登ってきた太陽を、わたしたちは「太陽が戻ってきた」とは言いませんしね(「新しい朝が来た」!)。
過去と同様に見える動きをふたたびやるとき、わたしたちは現在、あるいはほんのちょっと過去をなかったことにして、飛び越えて、過去に戻ったわけではないんです。
自信だって、あるときはあるし、ないときはないもの。
取り戻すものではないし、むしろ、次に得る自信は、前とはちがう、新しいもの のはずです。
戻れるものではない、戻る必要もない
不登校をしていたこどもが登校をするようになったら「元通り」なんて、つまらない話じゃないですか。
そのこどもは、「戻った」わけではなく、新たに「行く」をやっている のだと思います(学校に行く/行かないの違いは、実際にはどうでもいいことだけれど)。
もちろん「不登校」にかぎったことではありません。
たとえば現在よりも若かった過去の体型を「取り戻す」のではなく、いま理想の体型に「なる」。
家族や友人や恋人、かつて別れた誰かとの関係は元通りに「復活」するのではなく、途絶えた時期を経て、いま新たに結ばれる。
過去に戻ったのではなくて、いまそうなった、ということ。
戻れるものではないと同時に、戻る必要もないということ。
ある時点だけが完璧だなんてことはありえなくて、いま最新のわたしたちが、つねに完全であって、つねに不完全だということ。
過去よりも劣って感じられる現在への悩みを、比較ではなく、いまの自分の望み として考えてみれば、なんとなく少し前が開けて見えるもの、と思います。