こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。
不登校をしているこども本人、親もまた、日ごろよりも学校を意識して、憂鬱になってしまいがちな冬休み明け目前。
親が憂鬱になる理由のひとつは、「結局どうすればいいのかわからない」からじゃないでしょうか? 登校刺激は与えるべき・与えるのは絶対にNG、こどもを待つべき・待っていてはいけない……。
不登校をしているこどもに対して、親として、なにが正解なのかわからないとき、頼りにできるたった一つの答えについて書いています。
もくじ
冬休み明け、不登校をしているこどもが学校へ戻れるか?
不登校をしているこどもが、日ごろよりも学校を意識することになる休み明け。
冬休み明けを前にして、こども本人はもちろん、親もまた、つい気持ちが重くなってしまって憂鬱だ、ということがあります。
憂鬱になるのは、「結局どうすればいいのかわからない」からじゃないでしょうか?
親は、こども同様、たくさんのことを思案し、調べ、悩み、試みます。
不登校をしているこどもが以前のように学校へ通うようになるか、その瀬戸際のひとつが休み明けだ、と経験や風潮によって認識しているから、冬休み明けを目前にした時期の親は、日ごろよりもいっそう登校・不登校について過敏になってしまう。
そして、ひとたび学校の先生やカウンセラーの方に話を聞いたり、ネットで検索してみれば、ありとあらゆる矛盾したアドバイスが襲いかかってきます。
「登校刺激を与えよう」「登校刺激は絶対にNG!」
「登校刺激を与えるべき」と言う人もいれば、「登校刺激は絶対にNG」と言う人もいる。
「こどもの意思を尊重して待つべきだ」と言う人もいれば、「待っていても治らない」と言う人もいる。
「気にかけていることを伝えたほうがこどもは喜ぶ」「親の言葉がこどもにはプレッシャーになる」、
「専門家に頼ればこどもは大人の意見を聞き入れる」「専門家ではなく親の愛情が大切」etc、etc……。
誰かが提示する「正解」には、すべて相反する「正解」があって、
本当はなにが正しくて、本当はなにが正しくないのか、冬休み明けを目前にして自分がとるべき行動はどれなのか、わからなくなって疲れてしまうし、焦ったりもしてしまいます。本当に悩ましいところですよね。
その結果、自分自身が幸福であるための生き方のひとつである「不登校」に対し、こどもにとっては「不正解」な言動を向けてしまうことも、しばしばかもしれません。
わたしたちの「不登校」について
そんななか、このブログを見てくださって、ありがとうございます。
わたしたちのことを先に軽く説明させてもらうと、このブログは親子で運営しています。
星山海琳(まりん)は、小学校に入学してすぐに学校へ通うことをやめました。そのまま中学校、高校ともに一切通わず、学校の勉強も一切しませんでした。
その後、17歳のときにふと大学へ行くことを思い立ち、手をつけたことのなかった12年間の勉強を約2ヶ月半で終え、現役で大学へ入学しました(現在は卒業しています)。
よっぴー(吉田晃子)は二児の母親で、まりんの兄も、小学生から不登校をしていました。
彼も中学・高校へ通うことはなく、勉強もしませんでした。また、彼は大学や専門学校等には行っていません(「ふつう」に働いています)。
不登校およびオルタナティブスクール(デモクラティックスクール・サドベリースクール)などの経験から、こうしたブログや書籍(『小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話』(セルバ出版)、『不登校になって伸びた7つの能力』(廣済堂出版)などが出ています)、トークライブや勉強会などなどを通して、わたしたちの考えを発信しています。
そもそも、自分はどうしてこどもを学校に行かせたいのか?
わたしたちが、自分たちの考えのみをお伝えするのであれば、「不登校」はそもそも「治す」とか「戻す」ようなものではない、と即答します。
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「学校に行かなかったら……」とは微塵も思っていません。学校に行くのも行かないのも、ちょっと行くのもちょっと行かないのも、すべてが等しく、ひとつのルートだと考えています。
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そんなわたしたちの考えはさておいて、どんな方向性の考えを持たれている方にせよ、冬休みのあいだに考えてほしいと思うことは、これだけです。
それは、
「そもそも、自分はどうしてこどもを学校に行かせたいのか」
「そもそも、自分はどうして学校には行かないといけないと思っているのか」
ということ。
いやいやそんなの当たり前でしょ、考えるまでもないでしょ……と思われるかもしれませんが、
「登校刺激を与えるべき」「登校刺激は絶対にNG」、
「こどもの意思を尊重して待つべきだ」「待っていても治らない」、
「気にかけていることを伝えたほうがこどもは喜ぶ」「親の言葉がこどもにはプレッシャーになる」、
「専門家に頼ればこどもは大人の意見を聞き入れる」「専門家ではなく親の愛情が大切」……。
あちこちに多種多様の正解があふれる現状で、この冬休み明けを目前に 頼りになるのは、この2点を考え抜いてあらわれる自らの答えだけ です。
冬休みのあいだに、学校に行かなかった人たちのことも知ってみる
こどもが不登校をしているとき、親はたいてい、「どうすれば治せるか」「どんな対応をすれば学校に戻れるのか」「なにをすれば脱出できるのか」と、様々な情報を渡り歩きます。
そんなとき、このブログを覗いてくださったのがひとつの縁であるように、学校に行っていなかった人たち・行かなかった人たちに関する情報収集をしてみる というのもいいですよ。ブログや本、SNSの書き込み、いろいろあります。実際に冬休み明けに学校に行かなかった人たちのことも、知ってみましょう。
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とってもザワザワするだろうけれど、それでも、さきほどの問いかけの役に立つと思います。
自分は「学校に行くルート」を通ったように、「学校に行かないルート」を通った人たちがいること。
それでいま、わたしたちが「普通」と呼ぶような大人をやっている人たちが、案外たくさんいること。
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それらを参考にしながら、何度も自分に問うてみる。
「こどもをどうやって戻せばいいのか」ではなく、「どうしてわたしはこどもを学校に戻したいと思っているんだろう?」と。
せっかくの冬休み。いままでは持っていなかった視点も得たその頭で、身体で、答えが自分から出きるまで、いちど考えてみませんか。
質問攻めにされても答えに困らない持論を
答えが出たからどうなるの? と思われるかもしれませんが、その答えが出てしまえば、実はどうにでもなっていくものです。まず、心が軽くなりますしね。
その答えに基づいてさまざまな情報を頼っていくのと、この答えのないまま情報を漁るのとでは、冬休み明けを迎えるにも、大きな違いがあります。
わたしたちはつい一般論で身を固めてしまいがちだけれど、まずは、一般論はいったん捨てて考えないといけません。わたしたち自身がスッキリしないのはもちろん、こどもは、親の口から出た言葉の空虚さにすぐ気づくからです。
一般論ではない、持論。
たとえば、「体調が悪くてすごくしんどいときには休養をとるべき」なんていうのは、一般論でもあるけれど、おそらくほとんどの人たちが持論として心底そう考えていますよね。
もし、そうは思わない人から「どうして休養をとらなきゃいけないの?」「なんで休まないといけないの?」と追及されても、相手の疑問が尽きるところまで、臆することなく、キレることなく、誤魔化すことなく、流すことなく答えられます。
- お金を稼ぐことに誇りを持っている人や、
- 他方からは不便に見える田舎暮らしや、無味に見える都会暮らし、
- ごはんは全て手作りすることに決めている人、あるいは全て外食や惣菜・インスタントを利用すると決めている人、
- それらの割合を自分なりの考えで組み合わせている人、
- 家は賃貸/持ち家がベストだと思っている人、
- 家電はこのメーカーと決めている人、
- ファッションは、トラッド、モード、カジュアル、ノームコア、とにかくいちばんエコノミーなもの、などと決めている人、
たとえばこれらもまた、「それはおかしくない?」「どうして?」「なんで?」「こういうときは?」と、問いに問いを重ねて追及されても、
(相手が同じ考えになるかどうかはともかく)答えに困るようなことはないはずです。
一般論でも受け売りでもない、自分が取得したこだわりだからです。
でも「学校には行くべき」という考えは、たいていの場合、あらたまって取得したものではありません。
冬休み明けを目前にしたときの迷いや不安を含めて、「不登校」にまつわるトラブルは、ほとんどすべて、ここから発生していると言ってもいいと思います。
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冬休み明けの登校について子どもと話をするときに大切なこと
冬休み明けの登校についてこどもと話をするなら、あらためて自分が取得した「学校」への答えでもって、こどもに接しましょう。
その答えは、「学校には行くべき」でも「学校には行かないべき」「学校は行きたい人が行き、行きたくない人が行かないのがいい」でも、もちろんなんでもかまいません。親の本心から出る言葉は、こどもに届きます。
「この答えには○○という理由があり、その理由の理由は××だから、自分は(人生や生き方について)△△という考えを持っているから」。この空欄の中身がどんなものであっても、その人だけの価値ある答えです。
けれど、ここでもうひとつ肝心なのは、これらはすべて「わたし」の視点であることです。「わたし」がそう思っているから、そうする。そうしている。
学校に行く・行かないについてどんな意見を持つかは自由です。けれど、親が持っている「答え」によって冬休み明けにこどもを登校させようとしたり、勉強させようとしたり……、その人の持つ意見どおりにこどもを強制させるような権利は、親であれ先生であれ専門家であれ、他人にはありません。
また、その考えや意見、行動が他者を苦しめるなら、場合によっては、相手と話し合い、わかりあい、すり合わせていくことも必要です。
「不登校」のメリット・デメリット
わたしたちは、不登校をメリットともデメリットとも思っていません。
けれど、あえてその言葉を用いるのであれば、物事には必ずメリット・デメリットがあります。
どんなものにも長所と短所があって、前後左右、表裏がある。人によって、あるいは物によって、それらのメリット・デメリットが入れ替わって認識されることもしばしばです。
それでも、どんな形でも、「不登校」は、雪どけのように、わたしたちの視界を広くしてくれます。それだけは、確かなことです。
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