こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
なぜ、人は謝るのでしょうか?
謝れなかった後悔もあるけれど、謝ったことで自分を省みないこともある。
コソボのペヤという町で出会った一匹の野良犬との出来事と、その出来事から「謝る」についておもうことを書いています。
2020年1月12日 16:13(現地コソボ時間 1月8日 08:13)に綴ったfacebookより
ペヤで出会った一匹の野良犬
ペヤ(コソボ)の町に着いて、アパートまで歩き出していたときのこと。
一匹の野良犬が近寄ってきた。
「向こうに行きなさい」てな感じでコラコラってすると、ほんの一瞬、向こうに行こうとして、
向こうに行かずに、戯れてきた。
この「戯れる」が、
この町のノラの犬の加減をまだ知らないそのときは、こわくなった。
噛まれるんじゃないか?
バックパックの紐を引っ張ったりするんじゃないか?
海外の町々ではノラの犬は珍しくなく、ここコソボに限らず、これまで訪れた町では、犬と人間はいい塩梅な距離を保っていた。
その経験があるから、ノラの犬を必要以上にこわいと思ったことはなかったし、そもそも犬は好きだから存在に恐怖はなかった。
未知なるものはこわいけど、見えると(わかると)こわくない
が、このときは、こわくなった。
まったくもって向こうに行かないんだ。
泣きそうなわたしたちのすぐ後ろをついてくる。
だから犬に言ったの。
「後ろはこわいから、前を歩いてくれませんか」って。
するとどうだろう。犬は、前を歩いてくれた。
「すごいなぁ」
「なあ」
なんて言い合いながら、こわさが緩んでいくのを感じた。
未知なるものはこわいけど、見えると(わかると)こわくないのは、ここでも同じなんだな、っておもった。
胸が痛い
不思議なことに前を歩くその犬は、
わたしたちの行く先を知っているかのように、「あの角を右に曲がる」ときには、先に右に行く。
次の右折も同じだった。
やがてアパートに着いた。
わたしたちが言うまでもなく、犬は、アパートには入らず、そこでストップした。
アパートの部屋にわたしたちは入り、荷物をおき、各部屋や台所、お風呂場などを見てまわったあと、バルコニーに出た。
下を見ると、アパートの入り口で、犬は待っていた。
胸が痛くなった。
待っていることに対してもだけど、お礼を言わなかったことや、コラコラってしたことや、つれなくしたこと、あれこれに。
30分ほどしてバルコニーから見ると、雪の舞うなか、犬はまだ居た。
1時間後のぞくと、丸くなってまだ居る。
どんな気持ちで待っているんだろう?
どうして待っているんだろう?
降りていって、「ありがとうね。今日はアパートを出ないから、もうお行き」と言おうか、ともおもったが、わたしはそれをしなかった。
待ち人来たらず
ペヤに滞在中、その道路は幾度となく歩いた。
町をぶらつくとき、
スーパーに行くとき、
レストランに行くとき、
パン屋や八百屋、、、
そのたび、わたしたちはキョロキョロと犬を探した。
いなかった。
いてほしかった。
どうしてか?
「ごめんなさい」を言いたかったんだ。
でも犬は、どこにもいなかった。
どうして謝るのか?
ペヤ、最後の日。
バックパックを背負ってバスターミナルまでその道をラスト歩いた。
犬がいた!
まるでわたしたちがその時間、そこを通るのを知っていたかのように、
待っていたかのように、
座って、その犬が居た。
おもわず声が出た。
「あっ!」
犬はわたしたちの前を歩く。
犬にわたしはあやまった。
「あのときはごめんなさい」と。
犬は、わたしたちの横をも歩きだした。
わたしたちの後ろも歩く。
もう、ひとかけらのこわさもない。
まもなくしてバスターミナルに着いた。
バスはもう停車していた(すぐに出発するのではなく、しばらくの間 停車している)。
犬にお別れを言って、わたしたちはバスに乗り込んだ。
犬は、乗車口ギリギリのところまでついてきたが、やはり乗りはしなかった。
数分後、未練がましく乗車口をのぞくと、アパートのときとはちがった。
そこにはもう犬は居なかった。
バスから降りてあたりを見渡してしまったが、犬はどこにもいなかった。
バスは出発した。
わたしは思った。
どうしてわたしはあやまったんだろうか? と。
どうして「ごめんなさい」と言ったんだろうか? と。
良心の呵責から逃れたくて、人はあやまるのだろうか?
いまも考える。