こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
先日、『【保存版】義務教育の意味と児童憲章-「不登校」は法律違反ではなく学校に行かない子どもは義務教育に反していない 』の記事を投稿しました。
今日はその関連つづきを書きます。
もくじ
ちゃんと歩いてますか?
星山海琳 さんは小学校入学式の帰り、学校でかんじた「不思議」を話してくれました。
その後も学校へ行くたび現れる「不思議」。
彼女は「学校って魅力的ちゃうわ〜」と言って学校に行くのをやめるのですが、やめるまでのあいだ、
その「不思議」を、じぃ〜〜と見澄ましていたのでしょう。
たとえばこんなことがありました。
入学してまもない遠足でのこと。
帰ってくるなり海琳さんはこんなことを言いました。
[voice icon=”https://ai-am.net/wp-content/uploads/2017/08/p-marinic.png” name=”まりん” type=”l”]なあ、お母さん、ちゃんと歩いてない人ってどんな人?[/voice]
ちゃんと歩いてない人?……。
ちゃんと歩く?……。
今日はどんな「不思議」があったんやろなあ〜。
この人はその「不思議」になにをかんじはったんやろなあ〜。
そんなこと心のなかでおもいながら、
[voice icon=”https://ai-am.net/wp-content/uploads/2017/08/p-akikoic.png” name=”よっぴー” type=”r”]んんん〜(しばし考えこむ)、自分の心持ちとはうらはらなことを選んでいて、そのことに気づいてない人かなあ?[/voice]
そう言うと、「心持ち」ってなに? 「うらはら」ってなに? といった会話のあと、彼女が言うに、
[voice icon=”https://ai-am.net/wp-content/uploads/2017/08/p-marinic.png” name=”まりん” type=”l”]先生なあ、「ちゃんと歩きなさい!」って言うて、Yくんの頭ポコンって叩くねんでー。
先生のほうがちゃんと歩いてないなあ。[/voice]
その「不思議」は犯罪です
こんな「不思議」もありました。
[voice icon=”https://ai-am.net/wp-content/uploads/2017/08/p-marinic.png” name=”まりん” type=”l”]なんで「花まる表」ってあるの?[/voice]
[voice icon=”https://ai-am.net/wp-content/uploads/2017/08/p-marinic.png” name=”まりん” type=”l”]なんで給食残したらあかんの?
給食たべおわらんかったら班みんな昼休みないねん。なんで?[/voice]
「花まる表」というのは、企業が営業成績を壁に貼り出すアレ ↓↓ のことです。
出典:教えて!goo
「花まる表」は教室の黒板の横にデカデカと貼り出されていて、花は、
宿題をちゃんとしてきたら1個、、、
掃除をちゃんとしたら1個、、、
善いことをしたら1個、、、と、
つまりは、先生が 善しとする「ちゃんと」に、ちゃんと従う と貰えます。
ノートも、先生が善しとする「ちゃんと」に、ちゃんと書けていたら花まるが貰えます。
ちなみに海琳さんはこの書き取り(1年生の初めはひらがな)が断固嫌いで、「これ、やりたくない!!」と言ってやりませんでした。
ほかに、成績の貼り出しもそうです。
健康優良児の表彰、名前ではなく出席番号で点呼する、「まえへならえ!」や背の順に並ばせる、などもそうです。
はっきりと言います。
これらは人権侵害です。
昼休みを奪うのは不当な罰です。
体罰は傷害罪です。
「ちゃんと歩きなさい!」と言って頭を叩くのは、傷害罪です。
給食の完食強要も体罰であり、強要罪です。
人権感覚の麻痺
わたし自身が小学生のとき、給食の完食強要をする先生がいました。
口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)のわたしにとっては食べてはいけないものを食べて、吐血して、また手術になったことがあります。
たとえば、飲食店で「残すとは何事だ!」と言って無理に食べさせて、こんなことになったら、営業停止、逮捕、裁判、有罪判決まちがいなしですよね。
ところが教育現場だと「行き過ぎた指導」という言葉でうやむやにされています。
人権意識が異様に低いわけ
半世紀が過ぎ、いまようやく監視の目が届くようになりました。
しかしながら、行き届いているとはいいがたい状態です。
さまざまな人権侵害が行われていて、多くの日本人が人権感覚をマヒさせられて大人になっているのです。
そんな人権意識の希薄な人が牛耳っている空間だから、人権侵害や犯罪だという自覚がありません。むしろ善意や正義感だったりするくらいです。
個性の尊重とか、自尊心とか、こころのケアとか、お題目は立派ですが、随所に骨抜きにするシステムが染み込んでいるのが日本の学校システム だとおもいます。
体罰は傷害罪であり、脅してコントロールすることが「職権乱用罪」の適用になる
『【保存版】義務教育の意味と児童憲章-「不登校」は法律違反ではなく学校に行かない子どもは義務教育に反していない 』の記事に、
やまむら ひろの さんが以下のコメントをくださいました。
不登校の子どもに罰金が課せられたということですか?
それって、職権濫用罪という犯罪ですよ。事件として新聞沙汰になっていいレベルの話です。
抜粋:facebook
このあとメッセージでのやりとりで、
CAPセンター・JAPAN で子どもに権利を伝えるプログラムのファシリテーターをされていた やまむらひろのさんに、職権濫用罪はじめ、上述の犯罪のことを教えていただきました。
体罰やプライバシーの侵害は、なぜ教師が行っても罪にならないのかという勉強会もあったそうです。
体罰は傷害罪であり、脅してコントロールすることが「職権乱用罪」の適用になると法律家が明言したのが印象的でした。
とあった一文が、わたしもまた強く印象に残りました。
骨抜きされた大人たち
わが家の子どもたちの幼稚園をどこにしようかと考えていたころの話です。
うちの近くにとても評判のよい幼稚園があったので、運動会を見にいってみました。
子どもたちが入場行進してくるときの、腕の振り方、足の上げ方、並び方が、兵隊さんみたいに揃っていたんです。
パートナーと「こわいよー」と言い合って、ぞぉ〜〜〜 としていたら、後ろから、
「(この幼稚園は)さすがやな! 3歳の子をこんだけ しつけられるんやったら安心や」と、どこかのママさんの声がしました。
それ、だれの安心なん? っておもった。
「安心」ってなんやとおもてはるんやろ? っておもった。
子ども自身の権利 – 安心・自信・自由は、いったいだれが守っていくん? っておもった。
※ 長くなるので「子ども自身の権利 – 安心・自信・自由」については、別記事で書きますつ
子どもが一人ひとり大切にされる世界であってほしい
学校と教育委員会は、学校教育をコントロールすることが目的化している ことに気づいていないのでしょうか。
教育は「何かのため」に行うものではありません。
教育そのもののために在るものです。
「義務教育」という言葉は、子どもから自由を奪っていないでしょうか?
どうして教育を強制することが許されるのでしょうか?
子どもには、自分の能力にあった教育を受ける権利があるのです。
公の学校を否定したいのではありません。
責めたいのでもありません。
子どもが一人ひとり大切にされる世界であってほしい。 それだけです。
人権意識が低すぎます。 低いがゆえに暴力がまかり通っています。
人権感覚をマヒさせられて大人になったわたしたちのあいだでも。
家庭でも。
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