こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
子どもの学びを遮らないとはどういうことか?
わたし自身が、こどもの学びを遮ってしまったときのお話と、
こどもの努力を忘れた大人にならないために、こどもの意欲(好奇心)に水を差さないことの大切さについて書いています。
もくじ
子どもの学びを遮る、取り上げる瞬間
昨日のまりんさんの記事 のなかで例えに出た「カップ麺の包装ビニールを…」は、昔、わたしがやらかしたことでした。
誰もが小中高へ通わず、その間ひとっつも勉強せず、17歳になって本心から高認合格を目指して2ヶ月半の勉強で合格するかというと、そんなことはない。
(中略)
思うのは、(わたしの場合なら17歳までの間に)親やまわりの大人から、どれだけ学びを遮られないか ということです。
疑問がわき、興味が生まれて、それを追究していると、やがて自分の頭で理屈を得ます。
(中略)
算数や数学を肌で体感する機会はいくらでもあるし(おやつを家族みんなに均等に分けるとか、自分のお金で自分の買いものをするとか、遠くへ出かけるとか…)、
開けづらいカップ麺の包装ビニールを自分で破ったり、
大人の矛盾が不思議になって悶々と考えたり、
縄跳びを10回連続で飛べるようになりたかったり、
割り箸を割ろうとしていたり、
こんなのって、まさに勉強ですもんね。本来の、大きな意味での勉強をし続けていたら、「学校用」に切り取られた「勉強」に合わせることなんて、簡単なはずです。
日ごろ、カップ麺を食べなかった我が家。
まりんさん(当時5歳)は、そのカップ麺を包んでいるビニールをどこから開けるかがわからなくて、両手でカップ麺を持って、目の高さでぐるぐる見回していました。
その台所に、わたしがたまたま、ちょうど入ったものだから、わたしは何気なく「それ、お尻のところから開けんねんでー」と言いました。
そしたらまりんさんは、「そんなん言わんといてくれる? どうなってるんかなーって見てるんやから」と言う。
わたしは、あちゃーーー、って思いました。
今もすっごくよく覚えている、こどもの学びを遮った・取り上げた瞬間 だったんです。
あの記事をまりんさんが書いていて、どんな例えがあるかなあ? って聞かれたとき、真っ先に思い出したシーンでした。
子どもの努力を忘れる大人
同じく、例えにあった「割り箸を割ろうと…」は、これより↑ 3年ほど前の出来事で、
母(まりんのおばあちゃん)とごはんを食べに行っていたときに、母は本当にただの善意から、無意識に、孫の割り箸を割ってあげようとしたのでした。
そのときも、まりんさんは「まりんがやろうとしてたのに!」と言った。
こどもの成長を目の当たりにしたと当時に、こどもの努力を忘れるおとな であったことに気づかされたシーンでした。
このとき、断りもなくこどもの学びを奪ったり、遮ってはいけない、と肝に銘じたんです。
だけど、肝に銘じた「つもり」にすぎなかったんですよね。「カップ麺の包装ビニールを…」の出来事はそのことをも教えてくれたのでした。
その「正解」が「普通」になる重さ
じゃあ、それ以降は、「つもり」から脱出できたか、と言うと、、、
まりんさんがまだ学校に通っていた、小学1年生のしょっぱな。リビングで、算数5問のプリント宿題をやっていました。
5問の回答を書き終えたまりんさんは、3問目に自信がなかったらしく、わたしに「3問目の答え、合ってる?」と聞いてきました。
回答は間違っていたので、(「合ってる?」って聞かれたから)「合ってないわー」と答えたわたし。
そして続けざまにそのあと、「4問目も合ってないよー」と言いました。
そのとき、その場にいた息子に言われたのが、「まりんは3問目が合ってるか聞いただけやのに、なんで4問目のことまで言うん?」。
このこともよーく覚えてる。
わたしはなんで言うたんやろなあ、って、じっと考えました。
物を考えるとは、物を掴んだら離さぬということ
こども自身が負うことのできる領域に、他者である親が踏みこんでしまうと、「考える」の持つ手をゆるめて、論理的思考から遠ざけてしまう んですよね。
『考えるヒント』(著/小林秀雄)に、こう書かれています。
物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。
引用:『新装版 考えるヒント』p.68
この一行の前も載せておきます。
考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積もりだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。
(後略)
引用:『新装版 考えるヒント』p.67-68
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あのとき息子のように指摘してくれる人がいなければ、わたしはそのあとも、同じようなことを言っていたかもしれません。
まりんさんもまた、4問目も間違えてるよ、などと言われることに抵抗や違和感がなくなっていたのかもしれません。
親が日ごろから言っていることは、こどもにとっても当たり前のことになって、指摘をしてくれることはありません。双方が気づかないまま、親の「正解」が「普通」になってしまいます。
無意識の学び
『 小学校1年から12年間勉強をしなかった子どもが2ヶ月半で高認合格した理由と背景 – 学ぶことはおもしろい 』の記事でつかう例えを考えているとき、
ほかにわたしが提案したものの一つに、「泥だんごを作ってて、どうやったらもっと、まあるくできるかなって考えているときとか」というのがあったんですね。
よく親は、「もっと水を含ませたらいいんだよー」「泥がやわらかすぎるんだよー」みたいに言ってしまうじゃないですか。そうやって学びを遮ってしまう場面があるよね、って言ったら、
まりんさんは、「大人は、大人が “遊び” と思ってるものには、意識的に言わない人も多くなったんじゃないかな。しょせん “遊び” 、って感覚だから。そうじゃなくて、もっともっと無意識の些細なこと」と言った。
彼女が言うように、こどもに口出し手出ししないようにしようと意識している人は増えてきたけれども、学びを遮らないっていうのは、もっともっと無意識的な部分からのことです。
遊び/学びは邪魔しちゃいけない、なんてことを育児本で読んで、
「じゃあ、ジグソーパズルをしてるときには、このピースはここだよって教えないようにしよう」「空を黄色に塗っているこどもに、空は青色だよーって教えないようにしよう」といったものではなく、
自分はよいことをした、とすらも思っていないようなこと、
こどももまた、邪魔をされたと思っていないような、
そんな段階から邪魔をしない、遮らないということ。これは本当にむずかしいです。
自発的意欲の展開
勉強は、「学校用」に切り取ることや、正解を知ることでもなく、きわめて研究的なものなんですよね。
(昨日のまりんさんの記事でも何度も書かれていたが)学ぶというのは、継続的な営み。
継続的に流れている営みに、水を差さないでいれば、学びへの意欲は途絶えません。
こどもの学びを遮らないとはどういうことか?
意欲(好奇心)を圧殺しないことだと「考えて」います。