「まりんさんは小中高に通わず不登校で、一切勉強もせずに2ヶ月半で高認に一発合格して、それが特別なことじゃないというのはわかるけど、誰でもできることではないと思う。どんな違いがあると思いますか?」
と、先日尋ねられました。
「特別じゃないけど、誰でもできるわけじゃない」について、わたしもそう思います。
違い…というよりも、その背景と理由について、あらためて考えてみました。
もくじ
「2ヶ月半で高認合格」が、ちっとも特別ではない理由
本 でも書きましたが、「小中高へ通わず勉強もせず、小1レベルから2ヶ月半で高認に8科目一発合格」は、特別なことではない とわたしは考えています(現状、珍しくはあります)。
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特別ではない理由は、おおーーきく分けて、以下の2つです。
6歳だからむずかしいこと、17歳にもなればできること
ひとつは、17歳になれば知識と体験が(小学生の年齢のころよりも)たくさん備わっている ということ。
使い道のよくわからない算数ではなく、日々の暮らしにある数学を体験していれば、あとからそこに公式を当てはめるだけで、「わけのわからない」ことではありません。
まったく馴染みがない異文化の絵柄のパズルを組み立てるのと、よく知った絵柄で組み立てるのとの違いのような…? 自分が得意な組み立て方だって、すでにある程度はつかめています。
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17歳になってから九九をおぼえるには1時間でいい
あるいは国語や社会などの科目なら、教科書からではなく、生活のなかで知らず知らず蓄積している知識が活きてきます。
たとえば、歴史を歴史として学ぶことは大切だけれど、本を読んだりテレビを観たり、誰かと会話したり、ゲームをしたり絵を見たり、そんな生活のなかでは一切歴史について触れる機会がないかというと、それはおそらくありえませんよね。
断片的な知識があって、そこから「歴史」という科目を勉強するなら、学習はぐっと早くなります。
「勉強」に恨みも苦手意識も、あこがれもない
もうひとつは、勉強をやりたくてやっていた ということ。
勉強はどうやら「やりたくないもの」「めんどくさいもの」「嫌いなもの」の代表選手ですが、それは、その人にとって勉強はやらなければいけないものだからです。
問題は勉強そのものではなく、勉強を「させられる」ところにあるということ。
させられてみて、楽しくなかったり、それよりもほかに時間を使いたいことがあったりすると、勉強はすっかり「嫌いなもの」になってしまいます。しぶしぶやるもの、いやいややるもの。でもやらなければいけないもの。
(学校で教えられる)勉強をやりたいとは思わない人が、「やらなければいけない」という発想さえないまま勉強をやらずにいたら、その人は勉強を嫌いにはなりません。恨みもないし、苦手意識もない、あこがれもない、フラットな状態です。
(ゴルフやプラモデル製作、乗馬、家庭菜園や染物……、多くの人にとってそんなふうにフラットな状態のものってたくさんありますよね。)
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そして、やりたいと思う日が(たまたま)やってきて、科目勉強に取り組む。
そりゃ楽しいですよ。楽しいことはどんどんやりたくなるし、ぐんぐん吸収します。誰にでも身に覚えがあることですよね。
じゃ、こういった条件があれば、誰もが同じところからスタートして2ヶ月半で高認に合格するかというと、やはりそうでもないと考えます。
親やまわりの大人から、どれだけ学びを遮られないか
「17歳になってから勉強したから」「やりたくてやっていたから」と、2つの要素をあげました。
じゃあ誰もが小中高へ通わず、その間ひとっつも勉強せず、17歳になって本心から高認合格を目指して2ヶ月半の勉強で合格するかというと、そんなことはない。
合格する人ももちろんいるだろうけど、しない人もそこそこいるんじゃないでしょうか(なかなかできない実験なので想像するほかありませんが)。
もちろん、試験なんていうのは結果次第で言えることも変わるわけで、当時わたしは合格することができたけど、不合格の可能性だって当然ありました。今もう一度やってみて必ず合格するかなんていうのも、定かではありません。
わたしが合格したのは運とタイミング、一種の偶然だということを前提にしつつ、今回いただいたご質問を考えてみます(要因は決してひとつではなくて、大小さまざまなことが重なっているので、一概には言えませんが)。
思うのは、(わたしの場合なら17歳までの間に)親やまわりの大人から、どれだけ学びを遮られないか ということです。
「学校用」に切り取られた「勉強」に合わせるだけ
疑問がわき、興味が生まれて、それを追究していると、やがて自分の頭で理屈を得ます。
それは、目には見えない精神的なことであっても、結果が目に見える動作であっても同じことですよね。この過程が幼児のころから延々と繰り返されることで、人は「学ぶ」を営み続けるし、「学ぶ」が機能し続けるのだと思います。
大げさに聞こえるかもしれないけど、一つひとつはすごくささいなことです。
上で書いたように、算数や数学を肌で体感する機会はいくらでもあるし(おやつを家族みんなに均等に分けるとか、自分のお金で自分の買いものをするとか、遠くへ出かけるとか…)、
開けづらいカップ麺の包装ビニールを自分で破ったり、
大人の矛盾が不思議になって悶々と考えたり、
縄跳びを10回連続で飛べるようになりたかったり、
割り箸を割ろうとしていたり、
こんなのって、まさに勉強ですもんね。本来の、大きな意味での勉強をし続けていたら、「学校用」に切り取られた「勉強」に合わせることなんて、簡単なはずです。
(もちろん科目によって得意不得意はあるし、かかる時間も異なるし、たまたま合格や正解の結果が出ないことは大いにありえますけど、少なくとも自らハードルを高くもって尻込みするようなことはありません。)
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「教えてあげる」「やってあげる」が取り上げる、こどもの学び
どうしたらそうやって勉強ができる人(こども)になるか……と思案してもしょうがなくて、人は本来勉強するものだからこそ、必要なのは学びを遮られない環境です。
当然のつもりの善意や、
同じ行為ひとつでも大人に比べてうんと時間のかかるこどもの動作を待てなかったり、
知識や体験についても(大人と比べれば)「未熟」な存在であるこどもの「育ち」の過程に意識を向けられなかったりして、
親やまわりの大人は、「教えてあげる」「やってあげる」といった形で、こどもの学びを取り上げてしまいます。
たとえばカップ麺のビニールを開けるのにこどもが少し手間取っていたら、親はすぐに「開けてあげる」をしてしまいます。
ここに勉強の過程はありませんよね。
こどもが学ぶことは、自分の答えやその発見過程ではなく、答えは決まっているということです。同時に、問題を見つけること、解決すること、その工夫、自分の心身の傾向、たくさんの失敗と誇らしさを、味わうことはできません。
その環境では、好きなことを好きなだけやる(そうやって「学ぶ」を営み続ける)、というのもほとんど不可能ですよね。
「教えてあげる」「やってあげる」の得意な親が、自分の価値観にそぐわないこどもの意思や言動を尊重して一切の評価を付さないなんてことは、ありえないといってもいいくらい難しいからです。
そして、その子が仮に学校へ行かずに科目勉強もせずにいたとして、親のありかたもやりかたも変わらないまま、17歳ごろに約2ヶ月半の勉強でポンと合格するなら、よほど奇跡的か、反抗的なケースじゃないでしょうか。
こどもは特別な存在だけど、決して特別ではない
こどもには確かに天才性があって、可能性にあふれています。
その天才性や可能性は大人、つまり何歳であれ同様に持っているもの。
ただ、多くのこどもは大人よりも比較的、それらが表面にあらわれるまでの距離が短いこと、また、こどもは未熟で劣った存在だという前提があることで、あくまで大人の視点から、「こどもは天才」だと表現されがちです。
けれど、親や大人がこどもを「天才」と捉えて、その認識でもってこどもと接することは、こどもを美化して、期待して、評価して、理解したつもりになってしまうことです。
そうやって扱われてきたこどもは、親が作り出した枠から抜け出すことが、とてもむずかしい。根っこから自分の心の動きで生きることが、むずかしくなってしまいます。
こどもは特別な存在だけど、決して特別ではないのです。誰も特別じゃないからこそ、誰もが特別なんです。
学校用に切り取られたのではない大きな、本来の「勉強」は、そうした枠のないところでこそ発展していくもの。わたしが遭遇した結果に理由を探すなら、きっとそういうことなんでしょう、と思います。