こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
サドベリースクール・デモクラティックスクールには、カリキュラムがありません。
(子どもからたずねられていないことを)教えない、提供・提案しないサドベリースクール・デモクラティックスクールは、オルタナティブ教育のなかでもとくに、公の学校のシステムとは異なる部分が多いです。
「家庭でサドベリー」でも同様に、学校に行かないからといって、かわりに家で子どもになにかを教える、ということはありません。
カリキュラムがなくて、ほんとうに大丈夫なのか?
それがなぜ、子どもにとっていいことなのか?
と、しばしばたずねられるので、ここで考えてみます。
↓ 後編はこちら ↓
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「子どもの可能性を狭めてしまうのでは?」
学校に行かないことは受け入れていても、「読み書き計算だけは」という方がいます。
これは必要最低限の知識(技術)、という意味で、カリキュラムおよび大人側から教える機会がないことへの不安は、読み書き計算ができたとしても(あるいはできないことを許容できたとしても)、消えないらしいのです。
そういうときによく聞くのが、「子どもの可能性」というもの。
[aside type=”boader”]学校はただ勉強をするだけの場なのではなく、知らない世界を知る場でもある。
そこで知ったなにかによって、自分のやりたいことを見つけたりするんじゃないですか?
だから、カリキュラムとか、子どもの知らないことを大人が示してあげるほうがいいんじゃないですか?
そうしないと、子どもの可能性や選択肢が狭まってしまうのでは? [/aside]
という意見。
もちろん、それがいいと思うならそうすればいいというのが、わたしの考えです。
その上で、カリキュラムは必要ないとか、大人が教えてあげる必要はない、と思っている理由を書きます。
可能性や選択肢はだれかに広げてもらうもの?
まず、「学校は知らない世界を知る場でもある」には、わたしも同感です。そこで知ったことから、自分のやりたいことを見つけたりする、というのも、もちろん大いにありえると思う。
ただそれは、学校に限ったことではありません。
可能性が狭まってしまう、選択肢が狭まってしまう、という。知らなかったというだけでそうなってしまったら、かわいそうだし、もったいない、という。
でも、可能性って、誰かに広げてもらうようなものだっただろうか? 選択肢って、誰かに用意してもらうようなものだっただろうか。
親は図書館にはなれない
大人が教えられる、子どもにとって未知のものって、なんでしょう。
大きな図書館みたく、ありとあらゆる種類のものを用意するだけ用意して、読んでも読まなくてもいい、という環境をつくることはできない。それだけの数を用意できないという面もありますが、図書館にはない下心が、親にはある、という面も含めて。
可能性や選択肢のためになにかを教えるというとき、結局は大人が知っていることを子どもへと流していっているに過ぎません。
その大人が知らないことまでは、子どもに教えられない。
極端な可能性の話をするなら、親から教わったもののせいで、親も知らなかったような、子どもにとっていちばんぴったりのものを見つける機会を失うことだって、なくはないのです。
↓【後編につづく】↓
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