こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
日本に少しずつ広まっているサドベリースクール、デモクラティックスクール。
この記事では、デモクラティックスクールで育った出身生のわたしが、日本各地のサドベリースクール/デモクラティックスクールのサイトから、「サドベリースクール/デモクラティックスクールの教育理念・方針とは食い違っている」ように感じられる文章を引用し、
サドベリースクール/デモクラティックスクールを選ぶ子どもたちが、サドベリー/デモクラティック教育で学べるために、理念の本質をいま一度考えています。
もくじ
「サドベリー/デモクラティックスクール」と名のつく学校が、サドベリー/デモクラティックスクールであるかどうかはわからない
デモクラティックスクール/サドベリースクールはすばらしい学校だとわたしたち(よっぴー、まりん)は考えています。
日本でも少しずつ広まっていること、子どもたちの選択肢が増えること、選びたい教育を選びやすい社会へと近づいていくことを、心からうれしく思ってもいます。
けれど、学校の名称に「デモクラティックスクール/サドベリースクール」が含まれていれば、それだけでその学校がデモクラティックスクール/サドベリースクールとして成立するわけではありません。どんな学校であれ、その教育理念、方針に則ってこその学校です。
この記事では、現在進行形で開校しているデモクラティックスクール/サドベリースクールの各サイト、スクールブログなど、公に公開されているものを対象に、「デモクラティックスクール/サドベリースクールの教育理念・方針とは食い違っている」ように感じられる記述を引用しています。
もちろん誹謗中傷が目的ではなく、
「デモクラティックスクール/サドベリースクール」の看板を掲げているとき、これは「デモクラティックスクール/サドベリースクール」として適切なのか?
「デモクラティックスクール/サドベリースクール」の看板を掲げているとき、これは「デモクラティックスクール/サドベリースクール」の本来の教育観から逸れた、こんな意味を持ってしまうんじゃないか?
「デモクラティックスクール/サドベリースクール」ではなくなってしまうんじゃないか?
じゃあ、なにが「デモクラティックスクール/サドベリースクール」なんだろう?
……などなどと考えていくことが目的です。
[box class=”yellow_box” title=”名称について” type=”simple”]
現在、日本では、
「アメリカのサドベリーバレー・スクールをモデルとした学校」を意味する「サドベリースクール」と、
「民主主義の学校」を意味する「デモクラティックスクール」の2つに名称が分かれています。
どちらの名称を用いるかは各スクールの考えによって異なっていますが、両者は同じ教育理念・方針をもつ学校です。
[/box]
わたしたちの考えが全面的に正解ということはもちろんありませんが、少なくともわたしたちは自分の考えを正しく持ちたいと思っていますので、引用した文章とともに、いま一度「デモクラティックスクール/サドベリースクール」を考えていきます。
同じく、デモクラティックスクール/サドベリースクールを考えられるなかで、そりゃ違うんじゃないかな〜と感じられることもあるかもしれません。
どちらが間違っているとか、いないとかではなく、なにがどう違うか、なぜ違うか、その違いは擦り合わせるべきものか両立するものか、そんなところまで含めて考えていくことが、結果的には全体を発展させていくことだとも思います。
デモクラティックスクール/サドベリースクールが気になっている方、探している方にとっても、参考になればうれしいです。
オルタナティブスクールは「公立の学校(一条校)の代わり」なのか?
まず、以下の文章からは、2つの疑問を考えてみます。
ひとつは、デモクラティックスクール/サドベリースクールにかぎらず、オルタナティブスクールは「公立の学校(一条校)の代わり」なのか?
もうひとつは、デモクラティックスクール/サドベリースクールは大人から子どもへの「促し」や「育む/育てる」を肯定するのか? です。
一般社団法人札幌サドベリースクールは、公立の学校が合わない、又は事情があって通うことが叶わない子どもにとって良い居場所であることを大切にし、基礎学力や社会性を育むこと、子ども自身のやりたい気持ちを大切にして自主性を育てるように見守ること、個々の成長の時期やその意思を尊重すること、自分と他者の違いが分かり、伝え合うことや聞き合うことで合意を形成するコミュニケーションが行なえるように促すことを目的としたデモクラティックスクールです。
まず、デモクラティックスクール/サドベリースクールにかぎらず、オルタナティブスクールは「公立の学校(一条校)の代わり」なのか? について。
オルタナティブという言葉は「代替品」や「既存・主流のものに代わる新しいもの」という意味をもちます。
「オルタナティブスクール」の「オルタナティブ」が指すものは後者です。たとえば日本では、「一条校」と呼ばれる公立・私立学校が現在の主流であり、唯一認可されている学校ですが、それらの教育理念・方針とは異なった独自の教育理念・方針に基づいているのがオルタナティブスクールです。
「一条校への反旗」ではなく(結果としてはありえる解釈ですが、そもそもの動機ではない)、「現在の学校教育はちょっとやばいので、こっちへ避難しましょう」「一条校に通えなくなっちゃっても、ここがあるよ」でもなく、独自の教育理念・方針があるのです。
どんな教育がその時代の主流であれ、シュタイナー教育が、サドベリー教育が、フレネ教育が、サマーヒル教育が、イエナ・プランが……etcが、それこそが理にかなったすばらしい教育であり、子どもを、ひいてはわたしたちの世界をよくするものだ、と、おのおのが信じているのです。
とすれば、オルタナティブスクールが「一条校の代替品」の意味を含むことはありません。むしろ、われわれにとってはいつでもこれが主流なんですが、といわんばかりの勢いです。
それで上記の文章に戻ってみると、「公立の学校が合わない、又は事情があって通うことが叶わない子どもにとって良い居場所であることを大切に」するというのは、「代替品」っぽい響きがあります(実際にどういった思いで、どんな配慮や工夫からこの文章を書かれたかはともかく、いち訪問者としてシンプルに文章だけを読んでみるとそう読める、という話です)。
もちろんそのような「居場所」は大切だし必要ですが、「代替品」としての「デモクラティックスクール」「サドベリースクール」というものが成立するのか? については、疑問があります。
可能なら公立の学校に行きたい、行ければいいのに、そっちが本筋なのにな、という前提から作られているデモクラティックスクール/サドベリースクール、およびそのスタッフは、
「カリキュラム・学年・テスト・成績・一斉授業・職員室・校長といったものは一切ありません。なぜなら子どもの成長にとってそんなものは必要なかったからです。そして、学校運営(規則作り)、教師の雇用計画(人事権)、学校の予算、そのほか必要なことすべてを、子ども達が一票を投じて決めていくシステム」(『 自分を生きる学校 -いま芽吹く日本のデモクラティック・スクール 』p.4)
を、心底信じられるでしょうか。
デモクラティックスクール/サドベリースクールは大人から子どもへの「促し」や「育む/育てる」を肯定するのか?
デモクラティックスクール/サドベリースクールの教育理念のひとつは、「子どもたちは自分で学び、成長することができる」というものです。
[box class=”blue_box” title=”デモクラティックスクール/サドベリースクールの教育理念” type=”simple”]
● 自分の好きなことを学ぶ
子どもたちは自分で学び、成長することができると信頼されています。だからそれぞれが興味のあることをしています。
子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ています。
● カリキュラム&テストなし
どんな形でも子どもたちがテストなどで評価されたり、大人からアクティビティについて先に提案されたりすることはありません。
子どもたちは自分で自分のことを考えることができるからです。
● 子どもの尊重
子どもたちは大人から一方的に指示されたり、規制されたりすることはありません。
子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされています。
● ミーティングで話し合って決める
スクール全体にかかわることはミーティングで話し合います。みんなで決めて納得したルールは守りながら、自由にすごすことができます。
スクールの方針・予算・スケジュール・人事なども子ども・スタッフ共に1 票をもって決定します。
スタッフをだれにするか子どもたちが投票をするスクールもあります。
● 年齢ミックス
学年・クラス分けはありません。いろんな年の子ども達がいっしょに過ごす中で、たがいに教えあったり影響を受けたりしながら、多くのことを学んでいっています。
引用:デモクラティックスクール総合情報サイト
http://democratic-school.net/index.php/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%90%86%E5%BF%B5/
詳しくはこちらの記事をご覧ください 「サドベリースクール、デモクラティックスクールってどんな学校?『自分を生きる学校』から紹介します」
[/box]
子どもたちは自分で学ぶし、自分で成長するのです。もちろんそれは他人の力を一切借りずに、自分ひとりだけで育っていくという意味ではありません。本当に自分ひとりきりで育つというなら、学校なんてそもそも必要がなくなってしまいます。
他者の存在とともに、共有の空間を維持し、作りこんでいく中で、子どもたちは知らず知らず、多くの学びを得ています。自分とは異なる他者の存在を認め、それぞれが過ごしたいように過ごすなかで、それでも学校という共同体をともに作り続ける。
デモクラティックスクール/サドベリースクールは、「そうなるための学校」ではなく、「そういう学校」なのです。
もちろん、入学して間もない子どもと、すでに5、6年通っている子どもとで、その技術に差があるのは当然です。年月を重ねるにつれて、よりいっそう「そうなっていく」のも自然なことです。
でも、技術の値にかかわらず、子どもが社会的で、自主的な存在であることはそもそもの前提なのであって、ゼロ値の子どもを大人が育成するための場所ではありません。「そうなる」ために大人が子どもたちを育てるのなら、「子どもたちは自分で学び、成長することができる」という根本的な教育理念さえ揺らいでしまいます。
「基礎学力や社会性を育むこと、子ども自身のやりたい気持ちを大切にして自主性を育てるように見守ること」「伝え合うことや聞き合うことで合意を形成するコミュニケーションが行なえるように促すことを目的」としている学校がデモクラティックスクール/サドベリースクールの教育理念・方針に則っているとは、わたしは思いません。
いやいや、見守っているだけだし、促しているだけで、直接手出しして育てているわけじゃない……という見方もありますね。
けれど、デモクラティックスクール/サトベリースクールの理念・方針にもとづいていえば、別に見守ったり促したりする必要はないのです。
子どもたちはもともと「自身のやりたい気持ちを大切に」するし、「自主性」のかたまりだというのが、デモクラティックスクール/サドベリースクールの考えだからです。
それに、デモクラティックスクール/サドベリースクールの子どもたちは、民主的なシステムを採用している(とわかっている)学校を選んだ子どもたちなのだから、そのシステムに反する子ども(あるいはスタッフ)がいるなら、それは「促し」なんて中途半端な矯正ではなく、きちんと話し合いの時間をもつべきです。
子どもは大人に交じって話し合いをしているのか?
デモクラティックスクール/サドベリースクールは、日常の活動内容やルール作りだけでなく、予算・人事といった学校運営に関しても、子ども・スタッフは平等に一票をもち、ともに話し合います。
学校を継続的に運営していくためにどのようにメンバーや支援者を増やしていくか、広報の方法や予算についての話し合い(ミーティング、会議)も同様に、スクール全体の課題です。
今、子どもたちと新規参加者の獲得や広報について考えています。
多くの学び場では、大人がメインで一生懸命考えます。当団体では、子どもたちも大人たちに交じって考えることで、
それ自体が多くの学びの機会になっています。子どもの頃からどうしたら人が集まるのか、どういう呼びかけがよいのかなど、
大人になってからも活かされるであろう様々を考え、試すことができます。
一条校をはじめ、多くのフリースクールやオルタナティブスクールでは先生やスタッフ、大人が運営を担いますが、デモクラティックスクール/サドベリースクールでは、子ども・スタッフがともに同じ立場で運営自治をおこないます。
それは「子どもにとってよい経験になるから」ではなく、対等な構成員のひとりだからです。
子どもたちがデモクラティックスクール/サドベリースクールの日常生活から経験することの多くは、たしかに「いずれ大人になったときに役立つ」ものです。「大人になったらすっかり不要になるもの」は、むしろほとんどありません。
自分の性格や好み、考え、癖、得意/不得意 といったことから、
自分と他者を区別すること、なおかつ区別した他者の性格や好み、考えを尊重すること、
その他者とともに快く共存していくこと、その方法、
自分の暮らしと経済を切り離さずに見据え工夫すること、感情だけではなく理性によって利益/不利益・損得や整合性を考えること……
などなど、わたしたちが一生涯こなしていく仕事ばかりです。
そして、ここに分岐点があります。
「よい学びになるから・役に立つことだから、年齢の小さなうちから子どもに機会を提供する」のか、
「子どもは大人と同様にひとりの人間だから、子どもと大人は当然、対等な立場で話し合う」のか。
どちらにせよ子どもはなにかを経験しますし、なにかを学びます。どちらにせよ、大人が意識的・無意識的に想定したものとは異なる学びを得ることだって、大いにありえます。
じゃーどっちでもいっか、というわけにいかないのは、「オルタナティブスクールは「一条校の代替品」ではなく独自の教育理念・方針をもっているから」です。
「交じる」は対等な響きですが、◯◯が△△に交じる、という文脈になると、△△が主体であり、主導権をにぎっていることが読み取れます。
結果的には◯◯と△△が混じりあってひとつの色になるのだとしても、この順序が文字化されていると、△△=大人の考えがベースであり、◯◯=子どもの考えはスパイスだ、というような解釈ができてしまいます。
デモクラティックスクール/サドベリースクールは、「子どもたちは自分で学び、成長することができる」「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」と考え、「子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされ」ています。
だから、子どもは当然スタッフとともに、スタッフは当然子どもとともに、自分たちの学校を作ってゆくのです。
デモクラティックスクール/サドベリースクールにカリキュラムやテストがないのは、子どもの成長にあたって必要がないと考えているからです。けれど「よい学びになるから・役に立つことだから、年齢の小さなうちから子どもに機会を提供する」ことは、一種のカリキュラムともいえます。
デモクラティックスクール/サドベリースクールの子どもたちは、「話し合う」「大人と一緒に考える」を目的にして学校にいるのではなく、日々の学校生活のなかで、ある意味では「避けて通れない」ものとして、話し合いを重ねています。
デモクラティックスクール/サドベリースクールのスタッフは、子どもを愛し、信じるべきか?
デモクラティックスクール/サドベリースクールの校内で唯一の大人であるスタッフは、一条校における教員の立場といえますが、(要望を受けないかぎり)授業によって子どもたちを教育するということはありません。
「教える」「育てる」をしない、子どもと対等な立場であるデモクラティックスクール/サドベリースクールのスタッフは、けれどひとりの教育者でもあります。
(前略)
大地を耕すとは、何か?
それは好きなことに
汗を流すことです。
子供ならば、たくさん遊ぶこと
好きなことに熱中すること
毎日の積み重ねの中から学ぶことです。
栄養とは何か?
それは、毎日の活動を
「よしよし」と言って
全てを受け止めることです。縁側にいるおばあちゃんが、
孫を見つめる慈愛に満ちた眼差しのような
「よしよし」という存在。木には、花が咲きます。
そして実がなります。人を育てるのは
一生をかけた長い仕事です。どんな「その子」のことも
信じて応援すること。きっと子どもたちは
育っていきます。
デモクラティックスクール/サドベリースクールは、全員が等しく一票をもち、立場を同じくする民主的な学校ですが、子ども(または保護者)は学費を払い、大人(スタッフ)は給与を受け取ります。
この両者の役割に違いがあるのは当然です。対等な立場だからスタッフも子どもと同じように一日じゅう自分のやりたいことをする、というのはもちろん違いますが、スタッフは子どもたちを教育するために雇用されているのでもありません。
じゃあ事務仕事をするためだけに、あるいは子どもから求められたときに動くためだけに学校にいるのかというと、それも違います。
デモクラティックスクール/サドベリースクールのスタッフは、デモクラティックスクール/サドベリースクールを成立させるために存在しています。
デモクラティックスクール/サドベリースクールの成立とはようするに、
「子どもたちは自分で学び、成長することができる」「子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ている」「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」「子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされる」という教育観にもとづき、
「学校運営(規則作り)、教師の雇用計画(人事権)、学校の予算、そのほか必要なことすべてを、子ども達が一票を投じて決めていく」学校としての環境が守られ続けているという状態です。
スタッフの仕事について、アメリカ・ボストンのサドベリーバレー・スクール創立以来のスタッフであるダニエル・グリーンバーグは「身を引く」ことと言い、ハンナ・グリーンバーグは「何もしないこと」と言います。
学校生活のすべてを受け止めているのは「学校」そのもの、あるいはその学校を構成している総意であって、スタッフではありません。スタッフは、そのものとしての「学校」を維持する存在です。
子どもたちの行いのすべてを容認し、涙をこぼせば慰め、勇気づける「縁側のおばあちゃん」は、無条件な愛を具象化した存在のひとつです。
システムだの、教育方針だの、民主性だのといった理屈を飛び越えた、愛というものに子どもが触れる瞬間です。もちろんそれはおばあちゃんに限らずおじいちゃんを介して触れるものでも、母親、父親、親戚でも、あるいは他人でもいいのですが。
いずれにせよスタッフは、子どもたちとともに縁側にたたずむことはできても、まだ幼い子どもたちの心を年長者として慰めてあげたり、「よしよし」と愛を注いでやること、「信じている」と相手の世界へ踏みこんでいくことはできません。
いや、大人としてできないことはないですけれど、むしろ大人としては容易で自然にも感じられるそれらの行動をとるとき、スタッフは
「子どもたちは自分で学び、成長することができる」
「子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ている」
「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」
「子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされる」
という教育理念を守り通すことができなくなってしまうのです。
この学校は、子どもたちがのびのびと現在(いま)を生き、自分たちで幸せを創っていく学校です。
そして、子どもたちが生きる日々のその先(未来)を大人が信頼によって見守る学校です。
「人間は生まれながらにして自ら育つ力を持っている」そのことをただ信頼します。
その信頼が源となり、自分が必要とする学びを自ら見出し成長を遂げていきます。
「人間は生まれながらにして自ら育つ力を持っている」という観念をもつデモクラティックスクール/サドベリースクールに、尊敬や信頼、尊重などの空気が満ちているのは自然なことです。けれど、信頼が「ある」のではなく信頼を「する」とき、そこには意図があらわれます。
頭から信じきっているものに対して、わたしたちはあらたまって信頼「する」ことはありません。けれど少し不確かなもの、怖いもの、けれどそうと信じたいもの、信じてみたいものを、わたしたちは信頼「する」。
明けない夜はない、やまない雨はない、などと言いますが、それらの言葉に勇気づけられる程度には、わたしたちは夜が明けることをすっかり信じきっていて、雨はいずれやむと考えています。
夜が明けることや雨がやむことを信頼「する」のではなく、それらをまるで疑わないのと同じように、いまは暗闇に感じられる自分の境遇が、夜や雨と同じように上がっていくことを信頼「する」。
そこで、学校において子どもたちの「能力」そして「未来」を信頼「する」とき、そこには不確かな恐れ、信じられないかもしれない、誤りかもしれないという前提 が発生してしまいます。
独自の教育理念・方針をもつことは、その理念を信頼「する」ことではなく、信頼「する」必要のある理念なのでもなく、その理念が確実に「ある」ということです。
デモクラティックスクール/サドベリースクールにおいて、大人「が」子どもを信頼「する」ことに、どんな意義があるでしょうか。
「子どもたちは自分で学び、成長することができる」
「子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ている」
「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」
「子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされる」
という教育観にもとづいた「学校運営(規則作り)、教師の雇用計画(人事権)、学校の予算、そのほか必要なことすべてを、子ども達が一票を投じて決めていく」学校に、行為としての「信頼」が必要かどうか、疑わしくもあると思います。
どちらかというと、子ども「が」大人(スタッフ)を信頼「している」ことのほうが重要かもしれません。
大人のする信頼が「未来」に向けたものであればなおさら、子どもたちは成長を急かされ、大人が見据えた「未来」のしっぽを追い、あるいはその影に追われてしまうという状況にもなりかねません。
「子どもたちは自分で学び、成長することができる」「子どもたちは「やりたいことをやる」ことで、その時々の最大限の学びを得ている」「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」「子どもも大人も同じように一人の人間として大事にされる」のに、です。
子どもたちは時々に学び、成長している、それは(大人と同様に)人生そのものである、という考えに則ってみれば、「成長」は「先(未来)」にあるものではなく、遂げるものでもなく、「現在(いま)」にあるものと考えられます。
「人に感謝ができる」のはすばらしいことか?
デモクラティックスクール/サドベリースクールにカリキュラムやテストがないのは、
「子どもたちは自分で学び、成長することができる」
「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」、
「自分を育てるのは自分」(引用:デモクラティックスクール総合情報サイト http://democratic-school.net/index.php/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%90%86%E5%BF%B5/)
という考えから導き出される、順当なシステムです。
ある生徒が通る時に、ボランティアスタッフが椅子をちょっと動かしてあげたらそれに対して、「どうも~!」と言ったそう。
ありがとうという言葉ではなくとも、感謝の気持ちを言葉で表していて素敵だなと思ったそうです。
一言が言えるというのは、たかが一言。されど一言、ですね。
そういうことも、ちょっとずつしていけるようになっていけば良いと思います(実際いつもその生徒はありがとうと言ってくれます)。(中略)
「感謝ができる人は強い人です」と、心の専門家で日本に臨床心理を根付かせた故河合隼雄さんはおっしゃっています。
感謝できる心が育っていってほしい。そのためには、大人子どもと年齢に関係なく、生徒スタッフと立場に関係なく、まず自分が感謝に気付ける人に、表せる人にならなければなりませんね。
お昼ご飯を食べながら、一緒にゲームをしました。
「ゲームしながらご飯?!」
という声も聞こえてきそうですが、スタッフとしてはそこはあまり良いとか悪いとかはありません。
テレビ観ながらご飯を食べるのも昔は行儀が悪いとか、家族の会話が無くなると言われていたそうですが、そんなことはありませんよね。
それに会話を楽しみながら食べる場でちゃんとしてるなどメリハリがあればいいのだという考え方です。
カリキュラム・テストなし、というシステムが指すのは、一条校や他のオルタナティブスクールなどの教育からカリキュラムとテストを取り除いた“だけ”の環境ではなく、「評価」そのものを取り除いた学校 であるということです。
テストや試験は誰もが「評価」の装置として認知しているもののひとつですが、「評価」として機能しているのはテストや試験だけではありません。
他者が、その人固有の価値観によって、相手の言動に価値をつけること。「わたし」の筆で、「あなた」に色を塗ること。それが評価です。
デモクラティックスクール/サドベリースクールは、自己評価以外の評価が存在しない学校、というよりもむしろ存在してはならない学校であり、評価が存在することとデモクラティックスクール/サドベリースクールであることは両立しない学校なのです。
「相手に感謝する」ことの尊さは世の中でさんざん説かれていますし、たとえ信じる教育が異なっていても、「感謝」の価値に異を唱える人はほとんどいません。
ただ、デモクラティックスクール/サドベリースクールにおいて、(大人であるという点で)ともすれば権力的な立場になりやすくもあるスタッフが「感謝できることは良いこと」と明言するのは価値観の押しつけになってしまいますし、「感謝ができてすばらしい」と言えばそれは評価になってしまいます。
そして「感謝のできる人になってほしい」という気持ちから(さりげなくであれ、直接的であれ)「感謝を促す」のは、大人がその人の価値観でもって「良い」としている事柄を教え、大人の定めた枠・引いたラインに到達するように「育てる」ことと、なにひとつ変わりません。
「ちゃんとする」というのも評価に直結する言葉で、すべての人に共通する「ちゃんと」の定義はありません。誰もが自分の価値観によって「ちゃんと」を定義し、枠を作り上げています。
定義し、枠を作り上げること自体は問題でもなんでもありませんが、その枠でもって相手を判定したり、枠に入っている相手を褒めそやしたり、枠に入っていない相手を否定するとき、それは「評価」へと顔を変えてしまいます。
相手の「ちゃんと」を否定しているばかりか、それぞれがそれぞれに定義している「ちゃんと」を、その人がその場面で用いるかどうかの自己決定さえ踏みにじってしまいます。
なににどう感謝するか、いつどこで「ちゃんと」するか、その基準までを子どもに押しつけながら、「子どもたちは自分で学び、成長することができる」「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」、「自分を育てるのは自分」だという教育理念を、どうしてつらぬくことができるでしょうか。
復路。
雲を見て、ある子が「海みたい」とつぶやく。
その感性がまたいい♪熊本の山々や阿蘇の外輪山を眺めながら。
転んだ友達にも優しい。
一緒に水道で傷を洗ったり、絆創膏を貼ってあげたり。
さらには、絆創膏の上から可愛いシールを貼ってあげるという神対応!(^^)!
11歳のシナリオライター君、ライターと言っても書くのが面倒くさいとw ネタはガンガン思いつくのにとの事。ワープロもやってみたけど、上手いこと行かなかったのだそうです。
そうなると思いついたら即動画みたいにするってスタイルは理にかなっているねー、昨日みたいな1分動画を毎日撮るとかって良さそうだなぁ っと思ったので伝えてると、
シナリオライター君、「でも再生数が伸びないとダメだしなぁ」と言うので、
スタッフ「ん?? もしかして稼ぎたいとか思ってる?」
シナリオライター君「バレたか!どうせ世の中お金だと思っている。」
スタッフ「(爆笑)、まぁ間違ってないかもだけど、サドベリースクールは稼げる事じゃなくて、楽しい事をする所だよ。稼ごうとして何かをやってもうまく行かないし、続かなくなるよ。」
シナリオライター君「そうなのか… じゃあどうすれば良いのか…」
11歳、めっちゃ堅実派ですね(^^)
本日の会議では「僕は今日は公園に行かないで、スクールでやりたい事があります。」
と宣言していた、11歳のシナリオライターさん。シナリオを書くのかと尋ねると、
そうだけど、週末はシナリオを書くのが全然出来なかったとの事。今日はできそうなのかと尋ねると、出来なさそうだと(^◇^;) なぜなら、
「僕は絵を描くことに決めても3日で終わったし、自転車の練習もしてないし、シナリオも書き続けられてない。」
と、どうやら「三日坊主」になる事が多いようです。
と言うわけで、RASファシリテーターでもあるスタッフからのアドバイス。
「3日しか出来なかった事はすぐにやめるんだよ。三日坊主を繰り返せば三日以上続く事が何かに出会えるんだ。学校や家庭では三日坊主を悪い物と言う人もいるけど、このスクールは三日坊主をいくらでもできる所なんだ。
シナリオも今は書けないなら今は書かないことをみんなに伝えれば良いよ。無理しないと続けられない事は今それをする時じゃないって事だから、他にする事があるんだろうし、後でならまたできるかもしれないんだから。」
と言うわけで、全員で公園に行きました♫
今日も会議で、「今日は何をするの?」と個々に尋ねました。
「スマブラと動画鑑賞と、とか他にも色々やりたい事ある!」
と即答できる11歳さん、とっても素敵だと思います!午後も暇なく自分のしたい事が詰まっていると言ったご様子です。サドベリースクール生徒の模範生です!
9歳さんは、「スマブラと、あとは決まってない」との事。 午後の予定は午後になったら考えるみたいです。それもまた良いですよね😊
他のみなさんは「考えてこなかった」との事w
スクールで何をするかって、自分で考えるのは意外と難しいのかもしれませんが、
5歳の生徒、スクール時間中はずっと一人、または誰かと好きな事をやり続けています。まだ会議で「今日は◯◯をやる予定」と発言はできませんが、「今はこれをする」と言う事はいつでもできるのです。スタッフから見ていて、本当にスクールライフを充実させている生徒だなぁと思います😊
サドベリースクールは「考えてこなった」もOKなスクールです😊でも考えてきたり、考えつく事のできる人はより充実したスクールライフ、そしてその先の人生があるのです♫
基準に満たない子どもを「教育」したり、促すだけでなく、基準に達している子どもを称賛したり、あえてその言動に言及するのもまた、「評価」の一部 です。
基準値それ自体がひとりの大人の価値観にすぎないわけですし、0点を与えることが評価であるなら、100点を与えることもまったく同様に評価だといえます。対象が「感性」であれ「優しさ」であれ、同じことです。
『大人が設定した「いい感性」「友だちに優しい」の基準に向けて子どもを育てる学校』であればそれは正当なことですが、デモクラティックスクール/サドベリースクールはもちろん、そのような学校ではありません。
それに、たとえば縄跳びの回数やマラソンのタイムなどであれば客観的に測ることも可能ですが、感性や優しさといった多様かつ曖昧なものは、本来、測ること自体に無理があります。
それらについてスタッフが「優れている」とラベルを貼るのは、子どもが自らの好奇心や性質、考えや決定によって歩いていた道に、無遠慮かつ暴力的に標識を立てる行為 ともいえます。
無遠慮かつ暴力的な標識は、「提案」にも共通しています。
子どもたちから求められた以外のあらゆる提案は、大人にとって(大なり小なり)芳しくないと思われる状況にあらわれるものですが、
デモクラティックスクール/サドベリースクールの子どもたちは、スタッフ=大人が(個人的に)ふさわしくないと感じる言動、未熟に思われる行為、欠陥や視野の狭さをあらわにするような悩み、それらに邁進する権利をもっています。
また、スタッフ(およびほかの子どもたち)は、スクールの公共性がそこなわれないかぎり、それを侵害することはできません。「稼ぐ」ことを否定し、正しい(と思われる)学校生活を指示したり、「アドバイス」によって思考や行動の変化を促したりして、子どもに正しい(と思われる)ルート案内をすれば、子どもの道はすっかり作り替えられてしまいます。
「自分を育てるのは自分」であり、「子どもたちは自分で学び、成長することができる」「子どもたちは自分で自分のことを考えることができる」のならば、そのような案内はもちろん不要です。
不要だから、デモクラティックスクール/サドベリースクールにはカリキュラムやテストが、それに付随する評価や提案がないのです。
学年やクラスがなく、さまざまな年齢の子どもたちがともに過ごすシステムには、「より幅広く学び影響しあう」、「“学び”について年齢で囲いを作らない」といった面がありますが、「“年齢”を評価しない」という働きもあります。
そもそも、やりたいこと、やっていること、そのタイミングもが一人ひとり異なり、必要なものも、もともとの性質も、なにひとつ同じではない場において、年齢という物差しはちっとも有用ではありません。
「していること/していないこと」を「できること/できないこと」と見なし(身長や体重といった物理的な制限や、法律に関することなどを除いて)、それらを年齢と結びつけて評価することは、評価自体がナンセンスであるばかりでなく、「個人」を軽んじることでもあります。
シンプルな教育理念をつらぬくデモクラティックスクール/サドベリースクール
現在日本にあるデモクラティックスクール/サドベリースクールについては、こちら↓ で一覧を紹介しています。
また、こちらの記事 では、子ども、スタッフ、保護者、それぞれの視点をまじえて綴られた書籍『 自分を生きる学校 -いま芽吹く日本のデモクラティック・スクール 』とともに、デモクラティックスクール/サドベリースクールを紹介しています。
今回、この記事に引用した以外のデモクラティックスクール/サドベリースクールはすべて「デモクラティックスクール/サドベリースクール」として完璧に成立しているかというと、必ずしもそうとは言えません。また、理念ではなく運営の面で困難をかかえていたりと、どの学校もつねに工夫を続けています(もちろん、一条校からオルタナティブスクールまで、どんな学校にもいえることですが)。
資格も認可もないデモクラティックスクール/サドベリースクールのシンプルな教育理念をつらぬき、学校として成立させるのは、それほどに難しいことです。教育にかぎらず、足し算ではなく引き算でなにかを作るというのは、往々にして骨が折れるものですしね。
それでも、家庭とは異なる「学校」は子どもにとって大切なもの。
デモクラティックスクール/サドベリースクールを選ぶ子どもたちがデモクラティック/サドベリー教育で学べるために、いま各地にあるスクール、これから生まれてくるスクールが、理念をまっとうした学校であることを願っています。