こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
世の中では、「すること」が自分やこれからをつくっていくと思われがちです。
それは決して間違いではないけれども、同時に「しないこと」が、自分や、これからをつくっている。
なにかをしない、というのは「逃げ」とか「甘え」と認識されることが多いものです。
「する」ことのほうが価値が高いって、そういうふうに捉えられている。
ほんとにそうだろうか?
「子どもを尊重する」よりも、「子どもをないがしろにしない」
そもそもの話では、なにかをしていない瞬間っていうのは、ない。
「子どもがだらだらしている」とか「寝てばかりいてなにもしていない」とかいうとき、子どもは「だらだら」「して」いたり、「寝る」ということを「して」いたりする。
「しない」と決めたり、選んだりすることには、意志がともなう。
たとえば「学校へ行かない」も、「しない」ことのひとつです(ほかにもおなじようなものでは、「就職しない」とかか)。
自分のアイデンティティを守るための「しないこと」。
生きるうえで「しないこと」を持つことは、指針になります。
「すること」はときどき偽善的で、「しないこと」は自分だけが見つけ出せるもの。
「子どもを尊重する」よりも、「子どもをないがしろにしない」のほうが、それに沿って生きられそうな感じがしません?
「子どもと対等に接する」よりも、「子どもをばかにしない」とか。
「自分らしく生きる」と掲げるとき、じゃ自分(らしさ)ってなんだろう、という疑問には案外辿りつきづらかったりする。
「自分らしくないことはしない」と掲げるとき、わたしたちはその疑問に辿りつきやすくなる。
必要な「逃げ」と不必要な「逃げ」
pha さんの『しないことリスト』という本も売れました。
長所と短所が裏表になっているように、なにかを「しない」ということは、なにかを「する」ということでもあります。
「結局なにかしなきゃならないんじゃん」ということではなく、なにかをしていない瞬間はないからこそ。
視界は広いほうがいいけれど、注視するものは、あまり多いとうまく見ることができなくなります(うさぎは視界が360度あるけど、視力が極端に低いって聞きますね)。
まあでも、「逃げ」とか「甘え」って、ほんとにそのとおり、という場合もあるわけで。
しかも世の中には、必要な「逃げ」と不必要な「逃げ」がある。
そのふたつを分けるのは、自分だけに対する誠実さだと、わたしは思っています。
ほかのどんなものに不誠実でもいいけど、自分に対してそうでなければ、指針や、自分が自分を失わないためのものになんて、なりようがない。
言葉で聞くほど、かたくるしいものではないんだけど。