こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
期待は自分のことをよく知る機会だなと思う。
自分がどんな自分であるか、教えてくれる。
わたしたちは、大なり小なり、意識的にも無意識的にも、まいにちいろんな期待をしている。
子どもに対してこんなふうに育ってほしいと思うのもそうだし、家族や友人に対して、こうしてくれるだろうとか、ああしてくれるんじゃないかとか。
で、それらが裏切られるたび、なんか腹を立てたり、あいつはだめだなって、がっかりしたりする。
誰もあえて裏切ろうとしているわけじゃない
よく伺う話のなかに、学校の対応にはがっかりしたとか、先生がわかってくれない、というものがある。
不登校やオルタナティブスクールを認めなかったり、学校に行きたくない子どもを連れ戻そうと必死だったり、PTAの退会をさせてくれないとか、いろいろと。
これは、もうすこし丁寧に順を追うなら、「学校は子どものためになることをしてくれるだろう」とか、「先生はわたしの気持ちを汲んでくれるだろう」といった期待があったけど、それを裏切られた、ということ。
子どもも家族も友人も恋人も、学校も先生も、誰だって、あえて裏切ってやろうとしているわけじゃない。
ただ、相手のやることが自分の期待とちがっていたっていう、それだけのこと。
あるいは、自分が相手のことをあまりよく知らなかったとか、自分の望みが先行するあまりに視野が狭くなっていたとかいうだけのこと。
わたしの心地よさのなかに学校は必要ない
ただ、子どもに対する期待、家族や友人に対する期待と、学校や先生への期待には大きなちがいがある。
わたしたちはそもそも、学校という場所にしがみつくのでなく、学校を信仰するのでなく、自分の、子どもの、心地よい生きかたをしようとしている。
心地よい生きかたのなかで、学校はわたしたちには必要ないなって、そう思っている(かな?)。
そう、それなのに、学校にがっかりする=期待を寄せているって、どうも妙な話なんじゃないかと思う。
期待をしないっていうのは、関係を断つってこととは違っている。
あきらめて、言いなりになるのとも違っているから、要望があるなら通るように工夫すればいい。
手放したいもの、手放そうとしているものにそれでも期待して、裏切られるのは当然のことかもしれない。
そうじゃなければたぶん、手放したいとも思わなかったんでしょうね。
そう言ったってなかなか無理な話だよと言われるかもしれないけれども、これまでの世界から離れて、いまの自分のために生きるなら、多少の無理も必要になるだろうと思う。
いずれにせよわたしたちは心地よく生きることに決めているので、それくらいはしょうがない。