こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山まりん です。
高校一年生の方から、「学校に行く意味ってなんなのか?」とLINEをいただいたので、小・中・高へ通わなかったわたしが考えてみました。
意味はあるけど、それが自分に当てはまるとは限りません。
「学校に行く意味って何なのでしょうか?」
LINE@ へのメッセージ、いつも本当にうれしいです。
先日、高校一年生の方が、数本に分けてメッセージをくださいました。
そのうちの一本だけを抜粋して掲載しますね。
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父親に「学校に行きたくない」と言ったら、
「まだ三ヶ月しか行っていないのだからもう少し頑張って。せっかく受験して受かったのだから辞めてしまったら勿体ない。今のままで社会に出るとなるともっと辛いよ。」
と。
そう言われるとやはりそうなのかな、と思うし、つらくても行ってみるほうがいいのではと感じるけど、やっぱり納得できない。
このまま学校に行っていて、なにか学ぶことはあるんだろうか?
博物館へ行ったり、お寺で写経をした日は、学校にいるよりも生きていると感じられて、正直、学校に行く意味がわからない。
学校に行く意味って、なんなんだろう?
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「学校に行く意味ってなんなのか」、わたしの思ったことを書きます。
学校に行く意味は無限にある
さっそく、学校に行く意味ですが。
学校に行く意味は無限にあります。
- 勉強しておいて損することはないから
- 人間関係を学べるから
- 社会性が身につくから
- なんであれ行くべきだから
などなど。
こういうのはだいたい、あとになって大人がつける「意味」ですね。
学校に通っている子ども自身がこういうことを言っているところを、わたしはあまり見ません。
子どもがつける「意味」ならどうだろう。
- 友だちと遊べるから
- 部活が楽しいから
- 行くほうが将来安心だから
- 休むと怒られるから
などでしょうか。
「どんな意味があるんだろう」と考えるひとって、基本的には、学校に行きたくない状態であることがほとんどです。
不満も違和感もなければつらくもなく、そこそこ、あるいはとても楽しく、学校へ行っているひとが「学校に行く意味って?」と考えることは、あんまりない。
「働く意味ってなんだろう」でも、「生きている意味ってなんだろう」でも、同じことですね。
誰かの意味は、自分の意味ではない
学校に行く意味をすこしだけ挙げましたけれど、他人のもっている意味は、自分にとっては価値のないものです。
そのひとがもっているから価値があって、意味になる。
他人にとっては、参考程度にはなるかな、というくらいのもの。
「学校に行くことになんの意味があるのか」と考えるときの自分にとって、学校に行くことは、本当になんの意味もないんだろうなと、わたしは思います。
もちろん、今後なにか意味を見つけるときもあるかもしれない(大人たちのように)。でもいまは、自分がまだ見つけられていない意味があるわけじゃなく、ほんとうに、ない。
たとえばさっき挙げたものなんて、全部よく知っていることばかりじゃないですか?
知ってるしそれもわかるけど、いや、でも、そういうことじゃないんだよな、と思っている。
「行きたくないわたし」が心底納得するだけの行く意味や価値なんて、ないんです。
他人の持ち出す意味や常識が、「わたし」の気持ちに勝ることはない。
このまま学校に行っていて学ぶことはあるのか、と感じたときも、絶対にその感覚が正しい。みんなじゃなく、自分だけにとっては。
子どもだからまだわからないだけと言うひともいるけど、中学生や高校生にもなればもう十分に自覚しています。
親の気持ちも、学歴のことも、働くってことも、世間のことも。
できるのは、天秤にかけること
そういうわけで、もし仮に、本当に正しい意味があったとしても、それは学校へ行く理由にはなりません。
どんな意味も正論も、自分がいやなら突っぱねていい。
そして誰でも、天秤を持っている。
結局のところ、なにかしたいこと(またはしたくないこと)があって、けれどそれを恐れたり心配したり、悩んだときわたしたちにできることは、天秤にかけることです。
なにか動き出せるのは不安が消え去ったときじゃなくて、恐れがあっても心配があっても、それでもやるぞ、と思えたとき。わずかでも、天秤がそちらに傾いたときです。
こうしたいという気持ちも、恐れも、天秤も、自分だけのもので、他人が、たとえばわたしがどんなに大丈夫だと言ったところで、大丈夫になるわけじゃありません。
だから、そうだな、参考程度になればいいなと、そう思います。
考える材料はいくらあってもいいし。
どの意味も、わたしには必要のないものだった
そういうことをふまえて、参考程度に。
わたし自身は学校に価値を感じなかったので、行くのをやめました。
本にも、詳しく書いています。
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やっぱり、意味自体はあるだろうと思うのです。
勉強することでみんなとだいたい同じ知識を持っていられるとか、
世間から外れないとか、
地元の友だちができるとか、
就職が(比較的)しやすいとか、
とか。とか。
でも、どれひとつ、わたしには必要のないものだったから、わたしにとっての「学校に行く意味」にはなりませんでした。
そして、後悔も問題も、まったくなかった。
(学校の)勉強だって校則だって、わたしのためではなく、国や偉いひとたちが求めるものだと、いまはわかるし。
なんにせよ、考えるって、すごく大事なことです。考える時間、というべきかも。
「意味」とか「なぜ」とかそういう、どうでもいいでしょ、とめんどくさがられそうなことが本当は必要で、自分を内面から形づくっていく。