こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
よくつかわれる「自由」という言葉への違和感、そこに感じられる不自由さについて。
「自由に生きてきたことをどう思うか」といったふうにたずねられたとき、思うこと。
「自由」という言葉に感じる、かたくるしさ
以前、こんなことをツイートしました。
「自由」ってよく使われるけど実際なんなのかな、と思って考えていると、必要のない言葉はそもそも生まれないことに気づく。物とか感情に、名前をつけたくて言葉が生まれるなら、いつかの誰かにとって「自由」が必要だったということで、それはつまり、不自由なひとたちなのだと思う。たぶん、いまも。
— 星山まりん @AI-am (@aiam_marin) 2017年10月5日
たくさんの人々が、それぞれに意味をつけて「自由」という言葉をつかっている。
子どもについてや、親子関係について、生きかたについて、いろんな会話や文章に頻出する言葉です。
でも、肯定的につかわれていても、そのほとんどどれもが、妙にかたくるしく、ぐったりとしたものを引きずっているような感じがして、あまり文脈に似つかわしくないことが多いなと、ときどき思っていました。
自由という言葉ににじむ不自由
そもそも「自由」は仏教用語で、福沢諭吉が「liberty」の日本語訳に「自由」という単語を当てたとかいう。
辞書に書かれてある意味や使用例がうつろっていくことが証明しているように、言葉は生活に根づきつつも、はじめに普及したものから少しずつ、微妙に、形をかえている。
そしてたぶん、そのなかのひとつに「自由」という言葉も含まれているんだと思う。
だから、語源とか、具体的な解釈とかは、いまはどうでもよくて。
わたしが気になるのは、自分は自由だ、そういうのが自由だよね、あの子は自由だな、と、そんなふうに(一定の説明のためではなく)「自由」という言葉をつかうひとのなかには「不自由」があるんじゃないかな、ということです。
自由な人間は、無自覚
不自由を知らなければ、自由を知ることもない。
不自由(と感じる)状況に立ったことがないそのひとは自由ということになるんだけれど、これが自由だ、と自覚することもないわけです。
不自由さは、できないことはない(期待する結果がついてくるかどうかはともかく、とりあえず動いてみること、やってみることはできる)のに、「やらない」ではなく、「できないこと」と自分で自分を抑圧することにも似ている。
ときどき、「自由に生きてきたことをどう思うか」とか、「わたしも自由に生きようと思いました」と声をかけてもらうことがあるのですが、実は、あんまりピンとこない。
わたしは自由に生きてきたというつもりなかったし、いまもないし(もっとも、不自由とも感じないけれど)、自由に生きたい・生きようとも、思ったことがありませんでした。
自由という言葉がしみつくひとのそばには、不自由があるような気がする。