こんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。
先日、よっぴー がFacebookで「ヒマはええ」と書きました。
いい意味で使われることは少ないけれど、暇は、ほんとうにいい。
みんな「暇がない」などと言って多少の暇は求めるのだけれども、暇がありすぎると、それはそれで問題らしい。
「暇人」とか、たいてい呆れたような、小馬鹿にした響きがある。
暇とはなんだろう。
ひま【暇・閑】 一 (名)
① 仕事や義務に拘束されない時間。自由な時間。「―をもてあます」「―を見つける」
(スーパー大辞林)
暇という言葉はよく好ましくない意味で用いられるけれども、実際にはただの時間そのものを指すのであって、個人的な状態や感覚は含まれない。
だから、「退屈」と「暇」は、ちゃんと区別したい。
暇をもてあまし、つまらなくなったとき、「退屈」という言葉を使う。
もちろん、退屈だって、悪いことではないのだけど(「退屈の向うで出るものは出るのさ」(開店休業/ユニコーン)とも言うし)。
暇は遊び
暇って、つまり「遊び」の時間のことじゃないかと思う。
(やりたくない場合の)仕事にだって、義務にだって、遊びを見出すことはできるけれども、まあ遊びそのものとは言いがたい。望んだものではないから。
自由な時間には、なにをしたっていい。
街をぶらついても飲んだくれても、ただ寝転がってテレビを観ていたっていいし、朝から晩まで時計の針が動くのを眺めていてもいい。
日がな一日、友人と電話をしていてもいいし、眠り呆けていたっていい。
そう、だから、「暇人」と呼ばれそうな行為は、ひととおりやってみることができる。
髪や爪はいつ伸びているのかなと、じっと見つめてみる。
思いついた言葉を、かたっぱしから辞書でひいてみる。
暇ってなにかなと、考えてみるとか。
子どもたちはみんな遊ぶ
そういう、無駄な時間の豊かさといったらはかりしれない。
「暇」と「無駄」は、おなじくらい素晴らしい。
愛すべき暇、愛すべき無駄。
なにかとても大きな話に発展するかもしれないことの、きっかけを生む時間。
もちろん、そんな時間やお金をふんだんに使っても、なにひとつ発展せず、なにもかもごみくず同然のままかもしれない。
結果は、どうでもいいことで。
損得感情では、暇を満喫することはできない。
遊ぶこと、たのしいことは、最強。
だから、子どもたちはみんな遊ぶ。
暇の起こす事柄は気のむくまま、どこにも終着点がない。
損得感情も罪悪感もすてて
世の中には、「なにもする(べき)ことのない時間」というものが怖いひとたちが、少なからず存在している。
暇が怖いひとたち、無駄が怖いひとたち。
ただ性に合わないのではなく、みょうな罪悪感が起こるような、そういう居心地のわるさ。
罪悪感が役に立つことなんてない。
目に見えて価値のある結果(つまり、だれかに讃えられるなにか)を生まない時間は、怖いだろうか。
ここまで書いて気がついたけれど、サドベリースクール(デモクラティックスクール)は、「暇な学校」という言い方もできるかもしれない。
彼/彼女たちはみんな、暇を生きている。
わたしは、暇であるばかりに毎日がいそがしい。
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