こんにちは、AI-am(アイアム)の吉田 晃子です。
どうして親(大人)というのは、力の権威を振りかざすんでしょうか?
どうして子どものころの自分を忘れてしまうんでしょうか? 自分も子どもだったのに。
もくじ
歩く自由を奪われる
カスピ海に面した町バクー(アゼルバイジャン)に来ているAI-amふたり。
その海岸沿いには弧を描くように海岸公園が続き、小規模の遊園地も点在してるんですね。
そこで胸が痛くなる場面と遭遇しました。
(四方に美しい風景がひろがっているにも関わらず、この姿勢(視点)のまま40分、シャッターを切りつづける星山海琳さん。相変わらずのことだけど、道ゆく人も不思議がって通り過ぎていきます。
何を、どう、みているのか、、、作品、楽しみにしててね)
(かつてシルクロードの中継地として隊商たちが行き交じったバクーは、今では石油で潤い、近くドバイのようになると言われているそう。
だからね、電車やバス賃がどんだけ乗っても約14円とかだったりします)
陽も暮れ、街のほうに戻ろうと、遊園地の横を通り抜けながら歩いていたときのこと。
街はイルミネーションで輝き、5、6個の乗り物がならぶ遊園地のライトアップも夢を誘っています。
ライトアップっていうのはさらなる魅力を増しますよね。
「乗りたい!」と、前をゆく3、4歳ぐらいの男の子も言っています。
でも、、、
「乗りたい!!」
「乗りたい!!!」
「乗りたい!!!!」
そう叫ぶたび、左手はパパ、右手はママと手をつないで歩いていたその男の子の足は、地面から浮かされ、
まもなく、パパに担がれてしまいました。
力の権威
担がれてもなお、男の子は、自分のやりたいことを主張しつづけています。
抱っこのように担がれているので、パパの肩越しから、ライトアップされた遊園地が、男の子には見えているんですね。
歩道を渡り、見えなくなっても、見えている……。
男の子は手をめーいっぱい伸ばし、てのひらもめーーーいっぱい広げて、からだ全身で欲求を叫んでいます。
わたしたちには言葉はわからないけど、パパは「いいかげんにしろ!」とでも言ったんでしょうね。子どもの叫び声はさらに高まりました。
男の子はとうとう、口まで押さえられてしまった。いや、抑えられてしまった。
「対等」を知るために
子どもの体形というものが、仮に大人と同じほどあって、手をひっぱったり、腕をもって宙に浮かせたりできなかったら、大人はどうするんだろう?
抱っこなんてとんでもなくて、力の権威(腕力)でもってその場を連れ去ることができなかったら、親はどうするんだろう?
こんなときは、子どものからだがムクムクと大きくなったらいいのにな。
そうしたら、親は、なんのために口があるのか、気づくかもしれない。
耳が眠りから覚めるのかもしれない。
歩道を渡ったところにハイブランドのショップがあってね、ライトアップされたウィンドーの前に、ママは立ち止まった。
ほんと、ライトアップは魅力的ですよね。
罪の深さと精神の貧困
この男の子は、いま このときの悲しみを、大人になっても忘れずにいるかな?
このパパもママも、子どものころ同じようなことを経験されたと思うんです。ただ、忘れてしまっただけで……。
そして、何の説明もなく、耳を傾けてもらうこともなく、いきなり怒られたり、たたかれたりして、親の価値観や都合を押し付けられることに慣れた。。。
親も、そのまた親に、ありのままの自分を愛されないで育ったのかもしれません。
何度も何度も目が合った男の子から教えられた胸の痛みは、
親から受けた支配愛(所有愛)をなんとしても解き放って、わたしの、今の代で断ち切って、愛をつなげる。という思いでした。
自我が満たされると、そこには善と呼ばれるものが現れる
親(や教師)は、支配者である自分の思考を押し付けはいけない。
そうじゃなくて、子ども自身が知識を発見し、オリジナルなものの見方や考え方をきずいていいんだ、という安心・安全な環境をつくること が、親・教師をはじめとする教育者の使命です。
親の価値観から子どもを解放することができれば、自由な精神と強い意思をもって自らの道を子どもは歩みます。
なににも恐れることなしに。
問題の子どもというものは決してない。あるのは問題の親ばかりだ。
これは、A.S.ニイルの『問題の親』の冒頭の言葉です。
※ A.S.ニイル・・・「子どもたちは強制よりも自由を与えることで最もよく学ぶ」という考えにより、大きな影響を世界の進歩主義の教育に影響を与えた学校として知られている英国のサマーヒル・スクール創設者。
小さな子どもに「利己的になってはいけない」というのは間違っている。子どもというのは、みなエゴイストなのだ。子どもにとって世界は自分だけのものである。子どもの願望の力は強い。子どもはひたすら願望を満たそうとする。(略)もしリンゴがあれば、彼の願いはそれを食べることだけだ。もし母親が、そのリンゴを弟と分けて食べなさいといえば、おそらく彼は弟を憎むことになるだろう。博愛主義は、もっと大きくなってから生まれるものだ。博愛主義は、利己主義はよくないと教えたりしなければ、子どもに自然に身につくものなのだ。もし子どもが利己主義を捨てるように教えられれば、博愛主義はおそらく一生身につかないだろう。博愛主義は利己主義の進化したものだ。博愛主義者というのは、他人を喜ばすと同時に自己自身の利己主義を満たす人のことにすぎない。
子どもの利己主義を抑圧する母親は、その利己主義を固着させてしまう。満たされない願望は、無意識の中で生き続ける。利己的であってはいけないと教えられた子どもは、ずっと利己的なままで終わるだろう。引用:問題の子ども
子どもが求めているのは愛と理解である。善良なままで成長する自由だ。子どもが善良なままで大きくなる自由、これをもっともよく与えることができるのは、本当は親である。しかし世界は困ったことでいっぱいだ。そんな婉曲的な言い方をやめてはっきりいえば、世界は憎しみであふれているといったほうがよい。そして子どもを問題の子どもにするのは、親自身の心の中の憎悪である。それは、犯罪者に罪を犯させるのが社会にしみわたった憎悪であるのと同じだ。救いは愛にある。しかし愛を強制できる人はだれもいない。だからもし世の中に希望があるとすれば、それは寛容を学びとることである。おそらく寛容こそ愛であろう。
寛容を学ぶには、なによりもまず自分自身に問いかけねばならない。「寛容と慈善は家庭で始まる」というが、内省こそは、知恵の始まりとまではいわないとしても、寛容の始まりである。問題の子どもをもつ親は、静かに腰をおろして自問自答しなくてはいけない。
「私は、子どもに寛容を示しただろうか。私は信頼を示しただろうか。理解を示しただろうか。」
私は理論を述べているのではない。私は、問題の子どもが私の学校に入ってきて、幸福な子ども、つまり普通の子どもになっていくのを知っている。私にはよくわかる。この治療のプロセスにおいていちばん大事な要素は、子どもに寛容と信頼と理解を示すことだ。引用:問題の子ども
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今日の本
問題の親
子どもに寛容と信頼と理解を示す、その術が内側からわかり、親自身が楽になります。
問題の親とは不幸な親であり、親が不幸であると親は心の中に憎しみをもつことになり、憎しみは子どもに投影され、問題の子どもとなる。本書は、このことを初めて明らかにした。
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