こんにちは、
AI-am(アイアム)の
星山まりん です。
最近、『ゴールデンカムイ』という漫画を読んでいる。
「日露戦争後の北海道を舞台に、かつてアイヌが隠し持っていた金塊を探す」というようなストーリーで、すごくおもしろいんだけれど、作中でときどき描かれる親子観から、思うことがある。
親殺しと巣立ち
子は親を選べない。
親も子を選べるわけではないけど、「子どもがどのように育つか」は、個性をのぞけば親や環境にゆだねられているわけで、とうてい同列には語れない(「どのように育てられるか」だって、子どもは選ぶことができない)。
この、「子は親を選べない」という観念が、漫画内でときどき描かれる(ちなみに、11巻・103話はその最たる例)。
( ↓ 1巻はこっち)
そのたび、登場人物たちは親を殺す。
もっとも、頻繁に血の流れる作品なのでそれ自体は特異なことじゃないんだけれど、いわゆる愛というやつを受けてこなかった、あるいはゆがんだ愛を受けて育ってきた登場人物は、たいてい親を殺すのだ。
そしてそれは、「ゆがんだ巣」からの「巣立ち」と呼ばれる。
殺人じゃなくても親殺しはある
親殺しっていうのはずいぶん昔からある通過儀礼(イニシエーション)のひとつで、神話や物語にもよく見られるし、心理学においても語られる。
ちなみに昨今の殺人事件では、そのうちの半数くらいが親族間のものらしい(2016年度の警察庁による統計PDF → https://www.npa.go.jp/toukei/seianki/h26-27hanzaizyousei.pdf)。
(親子間だけでなく、兄弟、配偶者、等々を含むので、もちろん親・子殺しはその一部だけれど、それにしたってずいぶんな割合。)
それから、事件ざたになるような行為ではなく、心理的、象徴的な親殺しは、ごくごく一般的に行われてきた(殺害を脳内でイメージするとか、そういうことではまったくない。念のため)。
あくまで精神的に、親を殺して、子どもとしての自分も死ぬ。
殺人と違って、こっちは一部のひとたちにとっての「あるある」じゃないかと思う。
親を赦すためには過程が必要
ほとんど誰にでも起こり得ることなんだけれど、親殺しは誰にでもできることというわけではない。
わたしの母親である よっぴー(吉田 晃子)もまた、心理的な親殺しを経てきたひとなんだろうなあ、と思っている(たぶん)。
いつか親を赦すようになったり、親への愛に自衛がなくなったりするとしても、いったんはその過程が必要になる。
逆にいうと、その過程をとおらなければ、いつか(かつて象徴的に殺した親を)赦したり、その親へ向ける愛のまわりから防護柵やらを取り除くことは、できないように思う。
親殺しは子殺しによって起こる
ひとは自立しようとして、それを食い止める親の存在があるから、子どもは親を殺さなきゃならない。
つまり、(心理的な)「子殺し」みたいなものがあって、そのあとに親殺しがある。
けれども、食い止める親の存在がなければ、どうなんだろう。
「子殺し」がなかったら?
『ゴールデンカムイ』11巻 でも、「親殺し」によってゆがんだ巣から立つひとと、「子殺し」にあわずに愛情を受けて育ったひととが、同時に描かれる。
だから、この通過儀礼は、かならずしも必要なものでもない。
自立しようとするのは、考えるまでもなく本能そのものだ。
みずから産道を抜けて、いつのまにか立ち、歩き、言葉をしゃべるようになるんだから、疑いようがない。
その後しだいに、親は子どもがもっている自律性をうばって、従順な適応能力にすげ替えようとしたり、社会や親自身の価値観の枠に押しこめたり、そこへ導いたりする。
ので、子どもは抗う(「抗うことができないひと」の増えている問題もあるけど、いまは触れないでおく)。
考えてみれば、ものすごく自然なことだ。
そういう、本来不要な行為をせずにすむためになにができるかといったら、「子殺し」をしないことに尽きるよな、と思う。