こんにちは、AI-am(アイアム)の吉田 晃子です。
早いもので9月も半ばになりました。
学校に行かない子どもとの過ごし方にも慣れてくるころかとおもいます。
でも、子どもさんが学校に行っていないことを隠そうとしていませんか?
もくじ
「隠す」のはなし
わが家は海琳さんの上に息子がいて、彼は先天性心臓疾患のため、生後8ヶ月になっても体重が5キロにならない人でした。
手術をするのに5キロになるのを待ってたんだけど、3回目の心肺停止がおきたとき、もうこれ以上は待てないということで手術にいたりました。
で、無事に終え、経過もよく、退院前に、念願の外出許可がでました!
うれしくてね、父母に、孫とゆったりと過ごす時間をあげたくって実家に帰りました(孫を病院でしか見れなかったから)。
息子と風の香りや空の広さを見ようと、玄関の外で母といたとき、ご近所のおばちゃんがこちらに向かってきました。
母は、すかさず「あきこちゃんほら早く、家の中に入りなさい!」と言ったんですね。
わたしは意味がわからず、「なんで?」と聞いた。
母は、「息子を見られてしまうやん」と言います。
わたしは、「見られたらなんであかんのん?」と思って、家の中に入ることをしなかった。
おばちゃんは「あきこちゃん帰ってきてるんやあ〜」という会話から入り、「何ヶ月?」と言いながら、抱いている息子の顔を覗いた。
「10ヶ月〜♪」とこたえると、おばちゃんは「えらい小さない?」と言った。
「そうやねん。普通と比べたら小さいねん。 心臓わるくで生まれてきたから成長ゆっくりでなあ」とわたしもまた事実を言った。
「ほかの人はどうおもうか」ではなく、「自分は自分自身をどうおもうのか」
先天性心臓疾患の子をもつ親が、乳児期に言われたくない言葉は、「いま何ヶ月?」なんじゃないかなとおもいます(他の病気でも当てはまる方はいるとおもう)。
なんで言われたくないのか、、、こわいからです。
なにがこわい?
事実を認めることがこわい。
それは、気にしている部分をえぐるかのごとく突かれて、傷つくのがこわいのではありません。その先の深層。
よく、「◯◯さんってわたしのこと平気で△△って言うのよ、ほんと優しくないわ」とかって言って傷つく人がいるけれど、◯◯さん以上に自分に優しくないのは、自分ですよね。
事実の△△を容認してあげない自分。
自分はそんなダメにんげんじゃない?
うぬぼれんなよ、ってかんじ。
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なんでこわい?
評価に支配されているからこわい。
そのこわさから身をまもるために「うぬぼれ」を着ています。うぬぼれっていうのは優越感や劣等感のことね。
でも、こわさから身をまもれると思い込んでいるその「うぬぼれ」を、着れば着るほど、こわくなるんだ、こわかったんだと気づけた瞬間、「うぬぼれ」は消えていきます。そのとき、人生は能動的になる。
受け身の人生
「不登校」も同じです。
学校に行かなくなった子をもつ親が言われたくない言葉は、「あれ、学校は?」なんじゃないかなとおもいます。
なんで言われたくないのか、、、こわいからです。
なにがこわい?
事実を認めることがこわい。
なんでこわい?
評価に支配されているからこわい。
学校に行っていないことはイケナイことだと捉えているから、そんなイケナイことをしでかす子どもに育てた覚えはない、とか、そんな子どもに育てたのは自分のせいだとか……。
うぬぼれを着ている不自由なものは、自分を責めることで、自分から逃げ、現実から救われたいともがいている。
あなたはあなたであるために生まれてきたのに、どうしてみんなに合わせようと一生懸命になるの?
海琳さんが小学2年生のある朝(彼女は「不登校」に罪悪感をもっていない自由人)、親しかった元クラスメイトAちゃんのお母さんから電話がかかってきた。
なんでもAちゃんがひと月ほど学校に行っていないそうで、どうしたもんか、、、という内容。
ご近所だったので、「電話もなんだし、会ってしゃべろうよ。Aちゃんもいっしょにおいでよ! まりんも居るし♪」と誘うと、「Aちゃんを連れて歩いたら 休んでいるのがご近所の方にわかる から、うちに来て」となった。
わたしとAちゃんのお母さんがリビングで話しているあいだ、海琳さんとAちゃんは、Aちゃんの部屋に消えた。
そしてそのうち「公園行ってくる〜」と言うや駆け出して、二人は家を出て行った(出たとこ目の前に公園がある)。
次の日もふたりは、朝から公園で遊んだ。
5文字の勇気とわたしたち
Aちゃんのお母さんは、きのう、きょうで、、、「不登校」から解き放たれたわけではありません。
それでも勇気をしぼって実行されたこと、「あれ、学校は?」ときかれて、「行ってないよ」。
会いにおいでよ、 わたしたちに。
会いにいくよ、わたしたち。
はじめに目指すこと
子どもをどうやったら学校に戻せるか、とか、どうやったらゲームをやめさせられるか、など、つまりは、どうやったら親が善しとする通りになるか、と考えるのではなくて、
なぜそうおもうのか、
なぜ隠したくなるのか、
なぜそれを容認できないのか、
そこんとこをひたすら自問自答していってください。
隠すのって、その子の存在を、その子のあるがままを、否定していること になります。
「不登校」を許さないのは社会ではありません。
子どもは、なにも悪くない。
隠さないでほしい。