こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
こどもが学校に行かないのは、まあべつにいいのだけれど、
こどもはまだ1年生(または低学年)で、でもって、離婚してシングルマザーだから、、、共働き夫婦だから、、、
だから家にひとりで置いておくわけにはいかないから、、、まだ留守番はムリだから、、、
だから「不登校」をさせてあげられなくて、騙し々学校に行ってもらってて…… という方へ。
もくじ
子どもと話し合う
学校に行かないで済む方法はあります。行かないで済む方法を見つけるまで考えぬけば、あります。
まずは、お子さんと話し合う。
騙し々学校に行ってもらってて…… と親さんは言うのですが、そんな安直な理不尽なことはせず、わが子を子ども扱いするのではなく、ひとりの人として話し合ってみてほしいです。
不登校はするものであって、させてあげるものではありません。
自分(親)が不利にならないように丸め込むとか、
都合の悪いことは言わないとか、
高圧的に話すとか、
なにかで釣るなど条件付けもしないで。真正直に。
なにを言っても怒らない・怒られない安心、非暴力の安全のなか、尊敬し、支え合い、助け合える子どもと話し合えたとき、想像もしなかったアイデアや考えがでてきます。
※「 親と子がハッピーになるコミュニケーション講座 」では、「聴き方」「話し方」「話し合い方」などを学んでいます。
あわせて読みたい
「まだ無理だから」
まだ1年生だから、、、まだお留守番はムリだから、、、と言う親さんがいますが、この「まだムリだから」の言葉は、もう死語にしませんか? これは、とっても悲しい言葉だとおもいます。
子どもがなにかをやろうとしている(今回だったら「学校に行かない」がやりたい)ときに、本人ではない親のほうが先に、否定とか、決めつけの言葉を投げかけて、子どもの「やりたい」にブレーキをかけるということは、子どもの「学び」「育ち」を奪っているってことです。
どうせ無理だから
それって、「どうせムリだから…」を子どもに教えてしまいます。
「どうせムリだから…」と先回りしていたら、「どうやったらできるか」を考えてみることはできません。
子どもの「やりたい」にブレーキをかけるということは、「やってやる!」から「どうやって?」という、「自分という人間の欲求を解放する」ことから「考える力」ひとつをも奪ったってことです。
こうやって、なによりも大切な、子どもの「好奇心」を曇らせていくんです。わたしたち親は。
好奇心を曇らされ、自分のことなのに何がやりたいのかもわかんなくなった、わたしたち親が。
ゲームばかりして困ってるんです…… と言われる親さんの子どもさんは、もしかしたら、「ぼくも卵焼き作ってみたい!」と言っていたのかもしれません。
「まだムリだから」、「どうせムリだから」と、からだより頭で生きているわたしたち親は、見えるものしか聞こうとしないだけで。
方法やアイデア
話が少しばかり逸れてしまいました。
たとえばこんな方法やアイデアがあるんじゃないかなあって思いつく案を 2、3、書いてみます(あとは子どもさんと考えてくださいね)。
ひとりで家に居る
[aside type=”boader”]
- 子どもさんと話し合って、子どもさんが「ひとりで家に居る」または、「学校に行くぐらいだったら、ひとりで家に居る」って言うんなら、それが◎。
[/aside]
あとは、ひとりで家に居る間のあれこれを決めればいいですね(ピンポーンには出ないとかそういうこと)。スカイプやZOOMなどをつなげっぱなしにしておくのも、安心感がアップするのではないでしょうか。
フリースクール等に行く
[aside type=”boader”]
- フリースクール等に行きたいって言うんなら、それが◎。
[/aside]
いろいろ探してみてください。
>>>>> 全国のフリースクール一覧【随時更新】
>>>>> 日本のオルタナティブスクール一覧/不登校はもう古い!フリースクールや学校以外の選択
家から通えるところ、という発想でスクール等を探すほか、「このスクールに行ってみたい!」から探す方法もあります。
オルタナティブスクールはまだ日本では数が限られているため、引っ越しされる方も珍しくありません。
家で誰かと居る
[aside type=”boader”]
- 「家がいい。でもひとりはイヤ」であれば、家に来てくれる誰かをさがすのが◎。
[/aside]
祖父母、友人、知人をはじめ、たとえば何らかのこと(たとえばヨガとか)をしたくてスペースをさがしている人に、昼間、部屋を提供したり。もちろん、シッターさんに来てもらうのもありですね。
家庭教師(勉強がメインでもいいし、遊んでくれる人でもいいし、これもまた子どもさんと話し合って決めてくださいね)に来てもらう。
経済的に、もしくはここにお金は出したくないのであれば、ボランティアを募集してみてもいいですね。
あるシングルマザーの場合
以前、ご相談を受けられた、あるシングルマザーのお母さんは、正社員の仕事を辞め、近所の歯科医院の受付けをされるようになりました。
子どもさんを保育所にあずけられていたのですが、行きたくない! ってなって…… 、途方に暮れられて……。
お母さんにも、そして(いっしょにご相談に来られていた)子どもさんにも、「これから、どうしたいですか?」と尋ねると、「いっしょにいたい」とふたり。
だったらそのやりたいこと=「いっしょにいたい」をどうしたらやれるか、ふたりともがイヤじゃない方法を考えればいいだけです。
そうしたらね、その帰り道、駅から家への途中にあるその歯科医院の貼り紙が目にはいったそうです。
事情を話すと、こころよく「同伴出勤」をOKしてもらえたそうで、子どもも歯科医院で、みんなで「いま」を暮らされています。
今日の本
「超」育児
<11/16・宮崎>『親と子のハッピーなコミュニケーション』よっぴー&まりんトークライブレポート でも書いたことなのですが、4歳以上の子どもは「子ども」ではありません。
ひとりの大人です。
四歳よりも上の子にとって、成熟するとは何なのでしょう?
成熟の最も大事な要素は分別(判断力)です。子どもは四歳になるまでに、問題をどのように解決したらいいか、どんなふうに判断したらいいか、あるいはそろそろ自分の理解の限界に達したか——と、自分なりに判断するセンスを十分、発達させます。
しかし、私たちの社会は、この事実をなかなか信じようとしません。分別はもっと後の年齢になって付くものと、大半の人は考えています。それが十三歳か十六歳か、十八歳か二十一歳か、見方はさまざまですが……。私の見るところ、四歳より上の年齢層で分別が急につく、ということはありません。
四歳、五歳、六歳児の決断にも、四十歳での判断プロセスのすべてを見ることができるのです。
疑問・情報・経験を考え合わせながら進めていく子どもの判断プロセスは、大人とまったく同じであって完全に成熟したものです。年齢によって違いがあるとすれば、それは判断の際に使う知識、経験、学習の量でしょう。しかし判断のプロセスの質的側面は、あらゆる年齢に共通しています。
このことはしっかり覚えておきましょう。
五十歳の人にしろ、新しい状況で厳しい決断を迫られたとすれば、子どもたちと同様、どうしていいか分からなくなるはずです。こんな言い方があります。大人が難しい状況に陥って、どうしたらいいか分からないとき、必ず呟く「まるでガキみたいなものだ」という言い方が…。
言葉は、社会的な偏見を映し出すものです。引用:「超」育児