フェデリコ・フェリーニ『道』から考える:「できないこと」で価値は決まらない

ammこんにちは、

AI-am(アイアム)
星山まりん です。

 

わたしたちは価値判断をする。
なんらかの価値基準をもっていて、それを満たすものには納得もするし、愛しもする。

こういう仕組みは親子のあいだにもあって、それはたとえば「成績がよければ親の機嫌がよくなって、成績が悪ければ機嫌も悪くなる」とか、
「出来のいい兄は溺愛するけど、出来のわるい弟は放置」みたいな状態。

先日、ひさしぶりに、映画『道』を観ました。

この世の中にあるものは何かの役に立つ

』はフェデリコ・フェリーニが1954年に発表した映画で、日本でも1957年に上映されている。

[box class=”yellow_box” title=”『道』のストーリー”]
粗野で乱暴な大道芸人ザンパノは、頭の弱い女ジェルソミーナをはした金で買い取り、女房代わりにして村から町をめぐり歩く。

女が心を寄せた綱渡りの男は「お前だって役に立つ」と呼び込みラッパの吹き方を教えてやる。胸をかきむしる名テーマ曲「ジェルソミーナ」の調べ。

芸人はその男を殴り殺し、女を海岸の町に置き去りにした。
数年後、芸人はあの曲を耳にして人間愛に目覚め、夜の海に号泣する。

純粋な女と野獣のような男の物語は底知れぬ感動を呼び、世界を虜にした。

(日野康一)
出典:IVCベストセレクション版『道』【淀川長治解説映像付き】
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ジェルソミーナは、分類するなら「出来のわるい子」で、頭は弱いし、料理もできないし、美人でもない。

名作にはかならず名シーンが備わっているもので、『道』の(わたしが思う)名シーンは中盤、綱渡りの男(イル・マット)がジェルソミーナに言葉をかけるシーン。

自分はなんの役にも立たないし、生きていることがいやになったし、この世でなにをしたらいいのかわからない、と落ちこむジェルソミーナに、イル・マットが、「この世の中にあるものは何かの役に立つんだ」と言う。

地面に転がっているいくつもの小石のなかからひとつを取り上げて、
「こんな小石でも何か役に立ってる」
「これが無益ならすべて無益だ」、と言う。

 

「できないこと」で価値は決まらない

なんの役に立っているかわからなくても、それは「役に立っていない」ということじゃない。

ひとの価値がなにに宿るか、共通した観念はない。
見目麗しいとか、知識量が多いとか、収入が多いとか、料理ができるとか、芸があるとか、ひとによっていろんな基準がある。

けれども、すべてのものが役に立つなら、ひとは「できない」ことで価値が決まることはないんだろうと思う。

つまり、美人じゃないとか、無学だとか、貧乏だとか、そういうことに価値の有無は宿らないってことだ。
テストの点数がわるいとか、学校に行けないとか、友だちがいないとか、そういうことにも。

「この世の中にあるものはなにかの役に立つ」と思えば、たいせつと感じるものが増えて、暮らしは刹那の積み重ねだという気になる。

 

 

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