こんにちは、
AI-am(アイアム)の
星山まりん です。
不登校をはじめると(学校へ行かなくなると)、いくらか自意識過剰になるものです。
それが正しい言葉かどうかはわかりませんが、少なくとも、なんの気なしに学校へ行っていたときよりは、自分を確認する時間が多くなる。
それから、自分の感性をなぞるようなものに触れる時間も、多くなります。
流行りが好きならそれに乗るのもいいけれど、狭い教室を離れたら、「仲間はずれ」なんていうくだらない現象を気にかけることもありません。
12歳から16歳くらいまでのあいだ、どれだけ情緒を振動させて、これと思うものに心をゆだねられるかが、ひとを形成していく。
それは音楽だったり、映画やテレビ、アイドルや歴史や釣り、なんでもありえるんだけれど、今回は、読書です。
「おすすめ」はしませんが、参考までに、わたしが小中高に行かなかった間に読んだ本の一部から、小説を5冊挙げました。
不登校になれるような感性があるなら、ふたをしないほうがおもしろい(できる範囲でね)。
もくじ
オン・ザ・ロード/ジャック・ケルアック
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自由というのはこんなに楽しいものか。
20世紀半ば、『オン・ザ・ロード』は若者の解放宣言だった。
男二人、ニューヨークからメキシコ・シティまでのおしゃべり過剰の、気ままな、行き当たりばったりの旅にぼくたちは同行する。引用:ぼくがこの作品を選んだ理由 / 池澤夏樹
なんだか複雑な気持ち良さのなかを、あっちこっちジグザグに進んでいくんだ
広いアメリカを何度も横断し、縦断する。目的地へ行くために移動するんじゃなく、移動するために移動をする。
狂乱、破天荒、享楽、熱気、自由、そういう言葉でこの作品を片付けるのは惜しいもの。
紙と文字のあいだ、淋しさが地下水のように満ちていて、それがときどき文字の上まで上昇してくる。
「若いときに読んでいたら自分も旅に出ていた」と言うような大人は、もしほんとうに若いときに読んでいたって、旅に出たりなんかしない。
それにこの旅は、アメリカの短い歴史のなかでもほんのひととき、1940年代そのときにだけ叶えられた旅だった。でも、人はたいして変わらない。
自由というものがこの本にあるなら、淋しさはその根底で自由を支えているんだと思う。
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↑ これは、池澤夏樹氏の世界文学全集(全24巻の第1巻)。
わたしは文庫版じゃなくて、これで読みました。装丁がすてき。
春の嵐/ヘルマン・ヘッセ
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少年時代の淡い恋が、そりの事故を機に過ぎ去り、身体障害者となったクーンは音楽を志した。
魂の叫びを綴った彼の歌曲は、オペラの名歌手ムオトの眼にとまり、二人の間に不思議な友情が生れる。
やがて彼らの前に出現した永遠の女性ゲルトルートをムオトに奪われるが、彼は静かに諦観する境地に達する……。
精神的な世界を志向する詩人が、幸福の意義を求めて描いた孤独者の悲歌。出典:新潮社
暗い深みに隠れた心が黙している場合、往々私たちはより以上のことをすることができる
夜通し、正体のないものについて考えて、突然なにもかも(身近にあるものも、遠くにあるものも)が厭わしくなったり、なにもかもに親切になったりする、そういう心がすっかりどこかへ隠れてしまったころに読んだ。
忌野清志郎は、ヘッセの小説で描かれる主人公たちを「才能を持ちながら世の中に理解されず、神に近づいている」と表現し、そして「自分のことのような気がした」と語ったことがある。
「きみの心にも、『自分は孤立している、いかなる人間も自分には関係がない、いかなる人間も自分を理解しない』という妄想が忍びこんだのです。そうじゃありませんか」 という言葉に心あたりがあるなら、この本を読む価値があるんじゃないかと思う。
モモ/ミヒャエル・エンデ
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時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語。
時間に追われ、人間本来の生き方を忘れてしまっている現代の人々に、風変りな少女モモが時間の真の意味を気づかせます。出典:岩波書店
なぜなら、時間とはすなわち生活だからです
6、7歳ごろに読んだ。
そのときは、「これは資本主義への批判だ」とか「貨幣(経済)システムへの批判だ」とか思うことはなくて、のちのち読み返すときまでおぼえていたひとつのことは、「どうこたえるべきか時間をかけて考え」、「たいていは二時間も、ときにはまる一日考えてからやおら返事をする」老人のことだった。
この本が「大人向けの児童書」と評されているのをよく見かけるけど、そうでもない。
大人が読むことにももちろん意味はあるけど、児童書は児童書だ。
大人はこんなものを失った、と、これを読んだ大人たちが気づいたところで、ひととき殊勝な顔をする以上のことはなく、それもまた消費されていく。
そういう姿に違和感と嫌悪感をいだいて生きることのできる唯一の存在が、子どもたち。
フラニーとゾーイー/J.D.サリンジャー
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アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。
物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。
エゴだらけの世界に欺瞞を覚え、小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー。
ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。
ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。出典:新潮社
回れ右をするたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ
『ライ麦畑でつかまえて』を読んで、ちょっと読むのが遅かったな、と格好つけてみたりする。そういうことをしているうちは、結局まだ青年期のさなかにいたんだなということに、あとから気づく。
焦燥にいくらか客観性がうまれて、まっとうな形(短絡的にいえば、死ぬことじゃなく生きること)の救済に抵抗がなくなってきたとき、フラニーの過敏さはちょうどいい温度になって、自分のもとへ帰ってくる。それは、うれしいことだと思う。
そのとき、ゾーイーのおしゃべりはやわらかい目じるしのようにも聴こえるし、彼もまた「きれいなもの」(野崎訳)の一部なのだと気づく。
ちなみに、村上春樹訳の『フラニーとズーイ』が出版されてから、野崎孝訳の『 フラニーとゾーイー 』が絶版になったとかなんとか耳にするのですが、わたしは後者で読みました↓
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アデン・アラビア/ポール・ニザン
[amazonjs asin=”4309709508″ locale=”JP” title=”アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)”]
ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい──。
この冒頭の一句によって全世界の熱烈な共感をえた青春小説の傑作。
砂漠の地アデン、すべての虚飾をはぎとられた人間に見たものは何か。
1930年代、ヨーロッパの危機の時代をもっともラディカルに生き、戦争にたおれた鮮烈な青春がここによみがえる。出典:晶文社
いつもの地下鉄の駅で降りなければいいだけの話だ
書き出しの一文、「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」に、あるいはこの一文を読んで息をのむ瞬間のために、この一冊を手もとに置いておくのもいい。
この一文に心を掴まれないなら、この本を読む必要もないのだと思う。
幻滅と怒りから連なる、知性まみれの独白に独白に独白。「1920年代フランスのエリート」という背景は、いまのわたしたちが、実感として理解できるわけもない。
でも、だからこそ、『オン・ザ・ロード』と『アデン・アラビア』とのような、時代も国も異なる、対照的な反抗のどちらもに心を寄せることができたりする。
物語(ストーリー)を重視するなら退屈きわまりないけれども、数々のことばは刺激になって、枝から落ちる感情の受け皿になる。
そして、この本が自分にとってその役割を果たすかどうかを判断するには、冒頭の一文だけでじゅうぶんという、うつくしさ。
さいごに
ある本がふいに、視界にあらわれる瞬間がある。
タイトルを知っていようがいなかろうが、あるいはかつて読んだことがあってもなくても、それに手を伸ばすタイミングというやつには抗いようがない。
だから、「10代で読みたい小説」とか、「大学生のうちに読んでおくべき本」とか、そういうのは、うんざりする。とくに文学作品においては。
とはいえ、一人ひとり違う人間であっても、人間の成長と心理なんてだいたい似通っているところも多いもので、ある一定の期間に、ある一定の情動を起こす本は、やっぱり存在する。
ここに挙げたものはだいぶ偏っているけど、それはまあ、そういうことです。
幅広い知識をもっていることが良いことだと、学校では教えられるかもしれないけど、そんなことはありません。
好みが偏向するっていうのは、どんなものが好きだか自分でわかっているということで、最近だとそれは、案外貴重なことらしい(と聞く)。
知識の幅は広げたいときに広げられるものだけれど、感性のおもむくままに掘り下げていくためには、まとまった時間とセンシティブさが必要です。
不登校は、そういう行為のために、最適な日々をくれる。