こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
不安が人びとを取り巻いて、突き動かしている。
愉快なところではなく(それはあくまで「理想郷」)、不安のないところへ行きたい。
でも不安も安心も、本人だけが生み出すもので、決して親のものじゃありません。
人びとのゴール
不安のないところへ行きたいという気持ちは、本能のひとつなんだと思う。
みんな、こわいのはいやだし。
日々には不安だらけで、それを解消するべく動く。
不安の最たる例は、仕事です。つまりお金。
人びとにわりと共通的なゴールは、「経済的にゆとりがあること」。
そこにつながる道がとだえる(という気になる)から、不登校も、こわい。
結婚=永久就職ではなくなった
ひとむかしまえは、ここに結婚がくっついてきていたように思います。
とりわけ女性に関しては、結婚がゴールだった。
それこそ就職のような形で(「永久就職」とか)。
「花嫁修行」なんて、もうほとんどみんなしないでしょう。
「嫁」と「家事」が強く結びついているのは今も同じだけれど、家事のできることが絶対的条件というわけでもなくなってきた。
「お嫁に行けなくなるよ」という脅し文句とか、最近あまり聞かなくなりました。
わたしは結婚する気はないんです、という意見も、そこそこは通用するようになっています。
みんな保証がほしい
一方で、「就職できなくなる」という脅しは、まだまだ有効です。
就職および仕事には、収入という保証がある(基本的には)。
みんな保証がほしいわけです。
「学校には絶対に行かなければいけない」という思いこみが緩んでも、保証はほしい。
勉強をしなくてもばかにならない保証、学校に行かなくても社会からはずれない保証、お金が得られる保証。などなど。
でも、そんな保証はありません。
ばかになるかどうかは(学校の)勉強をしたかどうかとは関係がないし、12年間プラス4年の月日を学校で過ごしても社会不適合者じみているひとはいて、学校を卒業した誰もが正社員になるわけじゃない。
不安とその解消を、親が子どもに要求する
現状、学校は企業への就職までのわかりやすいレールを敷いてくれています(そのための学校だから、当然といえば当然)。
安心したいと思うのもまた本能だから、それに乗っかるのはたしかに手っ取り早いかもしれない。
そんな社会に問題があるにせよ、それを選んだのは彼/彼女たち自身だから、個人ひとりひとりを、誰が否定できるものでもありません。
「みんなと違っている」ことが好きなひともいれば、とくに気にならないひとも、耐えられないひともいるし。
でも、これらはすべて、本人のはなし。
不安とその解消を、親が子どもに要求するから話がおかしくなる。
子どもも、親も、親子の関係もおかしくなる。
自立ができるのは本人だけ
経済的自立を求めて、実際にそうであろうとする、そしてそのために行動するのは本人であって、親じゃない。
もし経済的自立の失敗(?)によって親になにか迷惑が起こるなら、それは我が子が自立をしていないことではなく、自分に援助を求められることです。
自分(親)が経済的な保証をしてやるんだというならともかく、子ども自身がつくりだすはずの安心と、不安とその解消、ありとあらゆる感情の箱に、自分の感情と知識を詰めこんでいる。
そして学校に行きたくないという子どもには、(ほとんどが保証のために)学校へ行けと言う。
自立をと言っておきながら、やっていることは真逆、という事態にもなります(残念なことに、そんなパターンがほとんど)。
そうだ、「自立させる」とか「自立しなさい」とか、変なことも言いますね。
立たされることと、立つことは違う。
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