こんにちは。
AI-am(アイアム)の
星山 海琳 です。
「やさしさ」の地点はどこだろう、と思う。
「やさしくしてあげる」のは、やさしさじゃあないでしょうね。感じたものがやさしさで、渡すものは(まだ)やさしさじゃない。
やさしさは、自分のものじゃなく、相手のもの。
じゃ、思いやりっていうのはどうだろう。
相手のことを考え、想像し、言動にする。
「やさしさ」の視点で見ればよけいなお世話だけど、見当違いでないのなら、思いやりはあるといいよな、と思う。
興味のないチラシを受け取ったら
こないだ、市内の大きい道路で信号待ちをしていたら、女のひとがチラシを配っていた。
車に乗っていたわたしからはそのチラシになにが書かれてあるのかわからなかったけど、平日の朝でみんな忙しく歩いているし、受け取ろうとする人はなかなかいない。せいぜい10人に1人というところ。
アルバイトでやっていることなら、早く配り終えたいって気持ちが動作に出る。でも彼女は明るく笑いかけて、丁寧に腰を曲げ、一人ひとりに意識を向けてチラシを差し出す。
たぶんそれは、顔も知らない誰かの宣伝ではなく、自分(または自分たち)の仕事についてのチラシで、伝えたいことがあるんだと思う。
多くの人たちは差し出されたチラシを受け取らずに素通りしていく。
彼女の心境は、まあ想像するまでもないはず。うれしいわけはないし、楽しいわけもない。一枚でも受け取ってもらえればぱっと明るくなる心も、曇っていく。
そんな姿を「思いやる」なら、興味のないチラシでも受け取ってあげればいいだろう。そうだ。そうか?
そのとき彼女の疲れはきっと飛んでいくし、受け取ってもらえた喜びがある。それで、どうなるだろう?
チラシは誰がなんのために作った?
興味のないチラシは、カバンやポケットの中でぐしゃぐしゃになるか、手近なゴミ箱へ去っていくか。ひととき彼女の心を明るくして、けれどそのチラシで「伝えたいこと」は、もちろん届かない。
チラシはタダじゃない。彼女がアルバイトでないとすれば、彼女の事業からチラシの制作費が捻出されているということになる。
彼女は、届くべき人へ届けるためにお金を出してチラシを作り、撒くのであって、「思いやり」で受け取られたのち捨てられていくために、それをやるわけじゃない。たぶん。
まあもちろんビラ配りなんていうのは「数撃ちゃ当たる戦法」に違いないし、視界に入るメリットはあるはずだし、無駄になることも想定した上でベターな方法として選んでいるんだと思う。
でも、興味のないものを受け取るのが「思いやり」なら、興味がないから受け取らないのも「思いやり」じゃないんだろうか?
お金を出して、届くべき人に届けるために作られたチラシを、興味がないから受け取らないこと。
どれが「ほんとう」の「思いやり」か、そうそうわからない。
思いやりは自分だけのもの
しいていえば、その正解は彼女の中にだけあるもので、ほかの誰かとぴったり共通するってことはない。
ついでに明確なのは、自分が「思いやった」言動は自分のものでしかない、てこと。
もちろんチラシを配る人だけではなくて、ビンの蓋を開けられないで奮闘している子どもや、雨の日に傘を持たないまま外出しようとする子どもに対しても、こういうことはある。
友だちを思いやるようにと、大人が子どもに教える光景もある。
わたしは、相手にとってなにが思いやりなのかと考えていることのほうがよほど(正解は見つからなくても)、相手の近いところへ行けるんじゃないかと思う。
もちろん、めんどくさいこと言わずにただチラシを受け取ってくれ、ビンの蓋を開けてくれ、傘や上着を持たせてくれ、という人もいるかもしれないけど。
それでも、もしもわたしたちがその「思いやり」を相手のためのものだと思い上がるなら、それは優位な立場から弱者へと振りかざす、ひどい横暴のように感じずにはいられない。
わたしにできることは、やさしさとはなにか、思いやりとはなにか、考えていることだと思う。
あるいは、自分の思うやさしさや思いやりはほんとうなのか、と、疑い続けること。
そうすればいくらかは謙虚でいられるだろうと、思ったりする。
[box class=”yellow_box” title=”おしらせ”]よっぴーまりんの本が2019年9月、発売になります!詳細は追って公開します:)
楽しみにしててね![/box]