こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
文部科学省から出ている一文、『「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間を育てることが必要』の重要性について。
『「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間』
星山まりんさんの 「学校に行かなくちゃいけない理由」の答え の記事内にあった一文、
教育の目的に関しても、『「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間を育てることが必要』という素晴らしい一文が文部科学省から出ています。
の、『「我」の世界と「我々」の世界を生きることのできる人間』というものについて、昨夜から もわぁっと おしゃべりしていました。
「我」の世界
文部科学省は、いいことは 言いますね。
しかし「我の世界」を生きることを教えることは容易なことではない。
「我の世界」を生きることを子どもに教えられる教師は、はたしてどれぐらい いるんだろう? とおもいます。
多くのおとなが「我々の世界」を生きるところまでしか考えていないのでは?(考えられないというか……。)
「我の世界」を生きる力を奪われておとなになった者たちが「我々の世界」で表層的に生きています。
人間として深く伸びるはずの根は不安に犯され、虚像と実像の間で引き裂かれる「自己」はみえません。
「我々」の世界
だから「我々の世界」には他者が不在している。自分と語らう言葉を持たない、自己不在の世界です。
自身のコアに「我の世界」が築かれていない不自由なオトナは、きょうも朝から疲れ果てている。
世の中でどう生きるかしか考えない無責任なオトナが、きょうも「我々の世界」で不在する。
学校教育のはじまり
明治18年(1885年)、初代文部大臣となった森有礼さんは、教育に経済の概念を加えました。
他国との激しい経済競争に打ち勝ち、富国を実現するためです。そのため教育制度がひかれ、学校が作られました。
そうして森さんが確立しようとした人材育成・経済主義教育は、いまもつづいています。
明治以降、世の中で偉くなることが教育の目標とする概念を、灰色は巧みに「我々の世界」に深く深く忍び込ませてきました。
「我の世界」を生きる力が根幹に必要
「我々の世界」の汚濁がすすめばすすむほど、それはおとなにではなく、「我の世界」を生きる子どもに蓄積されていきます。
「我の世界」を生きる力を子どもから奪いたくないのなら、子どもの発する信号に注意深く耳を傾けなければならない。