こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
『泳ぎすぎた夜』(ダミアン・マニヴェル&五十嵐耕平・共同監督)という映画を観ました。
子どもは意思も行動力も慎ましさも、ぜんぶを持っている。
知らないことがあって、冒険する心があれば、大人は子どもになることもできると思う。
子どもは人間なので
子どもには子どもの意思があるということが、ときどき忘れ去られている。
誰でも、生まれたときにはすでに、脳とからだと魂がある。
そりゃあ、生まれたてで走ることはできないし、骨も筋肉もやわらかいし、見たものの数や知っていることの数は、親からすれば少ないかもしれないけども、おなじつくりをしている、おなじように意思をもっている人間ということに変わりはない(それに、見たものの数や知っていることの数は、大人になったって、とんでもなく個人差がある)。
それでも、子どもと大人が接するとき、子どもが自分とおなじ、あるいはそこらじゅうの誰かとおなじの人間であり、自分たちとおなじように意思をもつということを忘れる(まるで子どもは人間未満みたいに)大人は、たくさんいる。
みんな慎ましさをもって生まれる
神戸アートビレッジセンターで、『泳ぎすぎた夜』(http://oyogisugitayoru.com)という映画を観た。
青森県の、ちいさな町の冬を舞台に、夜中に目をさまし、小学校をさぼり、自分の冒険を泳ぐ、ひとりの男の子の軌道をみる。
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雪で覆われた青森の山あいにある小さな町。
夜明け前、しんしんと雪が降り積もり、寝静まった家々はひっそりと暗い。
漁業市場で働いている父親は、そんな時刻にひとり目覚め家族を起こさないように、静かに仕事に行く準備を始める。出掛ける前には、それが毎日の日課というように台所でゆっくりと煙草をふかす。
しかし、なぜだかこの日に限って、その物音で目を覚ました6歳の息子。父親が出て行ったあと、彼はクレヨンで魚の絵を描く。
そして翌日。結局寝ることができず、うつらうつらしたままの少年は眠い目を擦りながら歯磨きをして、家族と朝食をとり、学校に出かける。
だが、登校途中に彼は、学校には向かわず、雪に埋もれた道なき道をさまよい始める。父親に、このぼくの書いた絵を届けに行こう、そう思ったのか、父親が働く市場を目指す。
この日、少年にとっての新しい冒険が始まる。朧気な記憶を頼りに、手袋を落っことし、眠い目を擦りながら。
出典:「泳ぎすぎた夜」公式サイト http://oyogisugitayoru.com/
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父親の働く市場に向かう道中で、慣れない町の横断歩道を渡ろうとする、永遠みたいなシーンがある。
両方向から車がやってくるので(右からくる車がやんでも、左からはやってくる、あるいはその逆、とくりかえす)、左右へせわしなく首を動かし、ちょっと踏みだそうとしてはうしろへ戻り、なかなか向こう側へ行くことができない。
車の行き交いのなかでとあるタクシーは、横断歩道の手前で止まって、渡れと指で男の子に合図してくれるけれども、それをさっぱり受け入れるほどの図太さや鈍感さを、子どもはまだ身につけていない。
後列車からのクラクションに急かされたタクシーは、渡ろうとしない子どもに、たぶん多少の不満も感じつつ、発進する。
それからしばらくして、車の行き交いがやんだとき、彼は横断歩道を渡っていく。
6歳の彼は、クラクションの音にちょっと後ずさりながら、「どうぞ」というように、タクシーに向かって両手を小さく差し出している。
夜明け前、父親が家を出て行く音に目をさましたあと、寝ている姉をゆすり起こそうとしたときも、ゆすっても起きない姉をそれ以上起こそうとはしない。
にんげんの慎ましさというやつは、身につけるものではなく、いかに失わずにいるか、というもののように思う。
知らない場所があること
わたしはトーキー時代前の無声映画が好きでよく観るけど、この映画のように、ひとの声を最小限まで排除することで、雪の町と、ひとの内がわの静けさをあらわすこともできるんだな、と知った。
あの静けさが思慮で、慎ましさかもしれない。
6歳でなくなったわたしたちにも知らないことはたくさんあって、こんな体験をすることは不可能じゃない。
ただそういう生活を、選ばなくなるだけで。
もしこれが子どもにしかできないことだとするなら、たとえばわたしが英語もわからないまま日本以外の国へ行って、しばらく気ままに、動物的に漂浪するときは、すっかり子どもになっているのだと思う。
知らない場所があることは、うれしい。
(そういえば、この映画を観ながら、フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』のことを思い出していたら、制作にあたって意識されていたいくつかの映画のうちのひとつだったそうです。映画の水脈はたのしい。)