「さようなら」の意味と日本語の美しさ。それは子どもとの関わり叱りかたのヒントにもなる

am3こんにちは、

AI-am(アイアム)
よっぴー です。

 

日本語には美しい言葉がたくさんありますが、「さようなら」は世界でも珍しい別れの言葉だそうです。

 

3月。卒業式や離任式、転勤、引越しなど別れの季節ですね。

今回は「さようなら」の意味と、本の紹介、日本語の美しさについてと、

あと、こどもを叱りたいときや注意をうながしたいときは、自動詞で言えばいいよねってことを書いています。

「さようなら」の意味

日本語で、美しいとおもう言葉はなんですか?

きっとね、いろんな言葉があるとおもうけれど、わたしはさようなら」の意味を知ってから「さようなら」になりました。

 

「さようなら」は、「左様ならば」が語源なんですね。

「さようなら」は漢字で書くと「左様ならとなり、「左様であるならば ……」の接続詞から転じて別れ言葉になったもの。接続詞があいさつの言葉になっているのは、非常に珍しいんだそうです。

 

 

竹内 整一さんの著書『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』には、一般に世界の別れ言葉は、

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  • 「神の身許によくあれかし」(Good-bye)か、
  • 「また会いましょう」(See you again)か、
  • 「お元気で」(Farewell)か、

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どれかだとあります。

 

 

境野 勝悟さんは、著書『日本のこころの教育』で、これが↓ 日本の基本の挨拶だったと言います。

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「今日(こんにち)は、お元気ですか」(今日=太陽とともに明るく生きていますか)
「はい、元気です」
「左様なら、ご機嫌よう」(太陽とともに生活しているのならば、ご気分がよろしいでしょう)

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この言葉が略されて、「さようなら」だけがのこり、別れの挨拶となったそうです。

 

 

そして、
航空黎明期の1931年、大圏ルートの調査飛行をおこなったアン・モロー リンドバーグ。彼女は日本を離れるとき、横浜で目にした光景を『翼よ、北に(中村妙子訳)でこう書いています。

長いけど、あまりに素敵なので省略せず引用しますね。↓↓

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。

Auf Wiedersehen や Au revoir や Till we meet again のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる Farewell のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。

Farewell は父親の別れの言葉だ。「息子よ、世の中に出て行き、しっかりやるんだぞ」という励ましであり、戒めであり、希望、また信頼の表現なのだ。しかし Farewell はその瞬間自体のもつ意味を見落としている。別れそのものについては何も語っていない。その瞬間の感情は隠され、ごくわずかのことしか表現されていない。

一方、Good-by(神があなたとともにありたもうように)と Adios は多くを語りすぎている。距離に橋を架けるといおうか、むしろ距離を否定している。Good-by は祈りだ。高らかな叫びだ。「行かないで!とても耐えられないわ!でもあなたは一人じゃないのよ。神さまが見守っていてくださるわ。いっしょにいてくださるわ。神さまの御手が必ずあなたとともにあるでしょう」。その言葉のかげには、ひそやかな、「わたしもよ。わたしもあなたといっしょにいますからね。あなたを見守っているのよ-いつも」というささやきが隠されている-。それは、母親のわが子への別れの言葉だ。

けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ-「サヨナラ」は。

引用:『翼よ、北に』より

 

『日本のこころの教育』/境野 勝悟

わたしが「さようなら」と出会ったのは、まりん さんの一言から。

ある日、幼稚園から戻るや言うんでした。

 

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「ありがとう」や「おはよう」は、「ありがとうございます」や「おはようございます」って言うのに、どうして「さようなら」は「さようならございます」って言わないの?

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ほんまや。なんでやろ?(「さようなら」が接続詞だなんて知らなかった!)

まりんさんがいだいた不思議に興味をもち、読んだのが『日本のこころの教育』でした。

 

この本は、東洋思想家の境野勝悟さんが、「日本のこころの教育」の演題で、岩手県花巻市の私立花巻東高校の全校生徒を対象に行った講演をもとに構成されたものです。

「さようなら」の言葉のほかにも「こんにちは」や、「お父さん」「お母さん」の語源の由来など、普段気にとめないで使っている言葉や、日本が日本である意味を問い直してくれる本でした。

小林多喜二さんの話も書いてあり、この本をきっかけに、今まで知らなかった日本語のことをもっと知りたくなりました。

 

アン・モロー リンドバーグと須賀 敦子

アン・モロー リンドバーグさん米国初の女性飛行機パイロットの「サヨナラ」(『翼よ、北に』)を知ったのは、イタリア文学者 須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』からでした。

境野勝悟さんの『日本のこころの教育』を読み終え、これ以外にも「さようなら」のことを書かれた本がないかなあ〜とおもいつつ、須賀敦子さんの本を読んでいたら、、、載ってるじゃないですか!(このときの喜びは震えた〜:)

アン・モロー リンドバーグさんの「サヨナラ」について、須賀敦子さんは『遠い朝の本たち』でこう書かれています。

さようなら、についての、異国の言葉にたいする著者の深い思いを表現する文章は、私をそれまで閉じこめていた「日本語だけ」の世界から解き放ってくれたといえる。

語源とか解釈とか、そんな難しい用語をひとつも使わないで、アン・リンドバーグは、私を、自国の言葉を外から見るという初めての経験に誘い込んでくれたのだった。

やがて英語を、つづいてフランス語やイタリヤ語を勉強することになったとき、私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。しかも、ともすると日本から逃げ去ろうとする私に、アンは、あなたの国には「さようなら」がある、と思ってもみなかった勇気のようなものを与えてくれた。

引用:『遠い朝の本たち』より

 

 

 

「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受けいれている。

 

「サヨナラ」と出会えて、よかった。この本と出会えてよかった、とおもった本です。

 

日本語に表れる日本人の性質

冒頭で書いた、日本語で、美しいとおもう言葉はなんですか?

実はコレ、コソボで、日本語を習っている人と出会ったんですね。で、その人に尋ねられたのでした。

その人は、いまは慣用句を勉強しているとのことだったのだけど、

  • 腰をいれる
  • 腰をすえる
  • 腰をぬかす
  • 腰をあげる
  • 腰をかける

 

これらの違いがわからない〜と言ってました。

腰をかける? 尻をつけるのではなくて? って。

 

日本語には「尻が青い」「尻に敷く」「尻を叩く」など「尻」の慣用句もあるけれど、にんげんの「体」に関する言葉は非常に少ないんですよね。

日本の言語学者、国語学者の金田一春彦さんの著書 からの受け売りで、

日本人の性質として、にんげんというのは着物を着ているものだ、という想いから、肉体的なものを書き表すことをとても嫌がり、「体」のかわりに「身」を使ったんです、とこたえておきましたが (^^;

でもほんと『百人一首』もそうで、尻は無論、手や口、鼻、耳なんて言葉はでてこないんですよね。詠まれているのは「身のいたずらに」だったり、「身を尽くしてや」「袖だにも」と、身や衣、着物の袖です。

表現が、「泣いた」ではなく、「濡れる袖」なんですよね。

なんとも日本語は美しいなあっておもいます。

 

で、コソボで出会ったその人に、美しいとおもう日本語はなんですか? と聞かれて、「さようなら」だとこたえたのだけど、もうひとつ、「お茶がはいりました」も付け加えました。

※ この人と別れたあと、適当に町をぶらついていたらトップ画像の「SAYONARA」のお店を見つけたのね。ちょっと驚いた。

「自動詞」と「他動詞」

「お茶がはいりました」の日本語って、すっごく日本的だなとおもいます。

「ごはんができました」や「お風呂がわきました」、パン屋さんの「パンが焼けました」もそう。

「お茶がはいった」「ごはんができた」「お風呂がわいた」「パンが焼けた」のこれらって、「雨がふった」「月がでた」みたいに、自分はなにもしていないのに勝手(自動的、自然的)になったのとはちがうじゃないですか。

お水をわかし、急須やお茶の葉を用意して、、、お茶をいれたのは「わたし」であって、雨みたいに天から降ってくるわけじゃない。

だけど、「お茶をいれました」とは言わないんですよね。

みなさんのおうちでも「お茶がはいったよ〜」と言っていませんか?

アメリカとかだと、「(わたしは/わたしが)お茶をいれました」になるのかな?

 

「お茶がはいった」(自)
「お茶をいれた」(他)

「パンが焼けた」(自)
「パンを焼いた」(他)

このちがいは「動詞」か「動詞」かだけど(辞書で動詞の言葉をひくと(自)や(他)と分類が記してある)日本人は他動詞より自動詞的な言いかたを好むんですよね。

 

だったら、、、
こどもへの言いかたも、ジュースこぼすよ、お皿落とすよなどと他動詞ではなく、自動詞で伝えたらいいのにね。

そこんとこ「親と子がハッピーになるコミュニケーション講座でも習っていて、ほらよく100回言っても聞かないんです…てなことをきくけれど、1回言って伝わらないことは、何回言っても伝わらないです。

愛しつくしてゆくことが大切

ひさしぶりにアン・モロー リンドバーグさんの本を読み、その流れから須賀敦子さんの本をゆっくりと再読しているのだけれど、

「さようなら」と「こんにちは」をくりかえす毎日を、愛しつくしてゆくことが大切なんですね。

そうならねばならぬのなら(左様なら)、素通りしていくのではなく。

 

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どんな言葉をつかっているか。
どんな言葉かけをしているか。
それらの言葉のもとで、こどもは育っている。

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そんなことをおもって、「オヤトコ学校 いい舟」の「窓」にも投稿したりしています。
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「さようなら」はもはや死語?…7割「使わない」と回答 なんてニュースもあったけれど、

さようなら。

なんて美しいあきらめの表現なんだろう。

毎日のすべての瞬間をあるがままに受け入れていく、しなやかな覚悟を秘めた言葉だなあとおもうのです。

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