こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
こどもは、どんな家庭に生まれたら、しあわせなのか。
こどもは、どんな家族と暮らせたら、しあわせなのか。
映画『チョコレートドーナツ』を観ていて、そんなことをおもいました。
この作品は、“家族” というものを通して、こどもが幸福であるとはどういうことか、何を大切にして生きるのかを考えさせてくれる作品です。
もくじ
こどもが幸福であるとはどういうことか?
『チョコレートドーナツ』で、ダウン症をもつ少年マルコと、ショーダンサーのルディが、はじめて言葉をかわすシーン(ルディが尋ねているだけで、マルコは3つめの質問にのみ頷く)。
ママは出かけたきり?
行き先も分からない?
話せる?
次に、マルコのお母さんが薬物所持でつかまり、家庭局の人が家にきてマルコを連れて行く場面で、家庭局の人がマルコに尋ねた言葉。
スーツケースはどこ?
着替えはこの中?
これなの?
マルコは質問されてばかりです。
映画って、日ごろ自分がしていることを客観視できるんですよね。
仕事から帰ってきて、愛するこどもに最初にかける言葉が、「ちゃんとしてた?」「宿題はしたの?」「明日の用意はやったの?」みたいなね。
マルコ「が」質問するようになるのは、家庭局から逃げてきたマルコが、ルディといっしょに弁護士のポールの家で夕食をいただき、好物のドーナツを食べ、たのしい時間を過ごした夜です(ルディとポールはカップル)。
ママは戻ってくる?
一緒にいてもいい?
お話を聞かせてくれる?
そして、弁護士ポールのおかげで、マルコは、ルディとポールといっしょに暮らせるようになり、自分の部屋をプレゼントされます。そのときにマルコがする質問。
ぼくのうち?
深いところからなみだがあふれてくる大好きなシーンなんです。
幸福であるこどもは質問ばかりしています(ジュース飲んでいい? 遊びに行っていい? といった許可をもらうための質問ではなく)。
学校では先生の質問にこたえることばかり強いられます。権力者へもそうです。
言うことをきかされるだけで、言うことに耳をかたむけてはもらえない(『 小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話 』に掲載した、まりんさんが6歳のときに書いた文にもおなじことが書いてあります)。
感情を自由にしていていい(泣いているときに「もう泣くな」や「泣きやみなさい」と怒られ言うことをきかされない。こども自身が怒ってるときに「いつまで怒ってるの」とか言われない)こどもの知性は、ひとりでに発達します。
ルディ、ポールと家族になって暮らしはじめたマルコがそうであるように。
上のシーン「ぼくのうち?」のあと、マルコはうれしくて泣くんだけど、
「泣いていい」
とルディに言われて抱きしめられます。
生きることや楽しむことを否定されないんですね。
幸福なこどもというのは、いつ、どんなときでも「自分」が不在せず、自分自身であることをゆるされているのです。
こどもには「愛」と「愛する」が必要
マルコのお母さんは薬物中毒で、いわゆる子育てをきちんとしていません。
『チョコレートドーナツ』の公式サイトには、
母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ。
とあります。
公式サイトより ↓↓↓
『チョコレートドーナツ』のあらすじ
1979年、カリフォルニア。シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ。正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール。母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ。世界の片隅で3人は出会った。
そして、ルディとポールは愛し合い、マルコとともに幸せな家庭を築き始める。ポールがルディのために購入した録音機でデモテープを作り、ナイトクラブへ送るルディ。学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。しかし、幸福な時間は長くは続かなかった。
ゲイであるがゆえに法と好奇の目にさらされ、ルディとポールはマルコと引き離されてしまう……。血はつながらなくても、法が許さなくても、奇跡的に出会い深い愛情で結ばれる3人。見返りを求めず、ただ愛する人を守るために奮闘する彼らの姿に我々は本物の愛を目撃する。
そう。マルコは「母の愛情を」「受けずに」育ったんですよね。
だけども映画のレビューを読んでいると、愛情がないとか、愛していないと書かれています。
あのお母さんは、愛情があるお母さんだってわたしはおもう。
愛がなかったら、とうの昔にマルコを見捨てていたり、蒸発したりしていたとおもうのです。
マルコは14歳で、14年間育ててきたのはあのお母さんです。
たいしたものではなかったかもしれないけど、ごはんを食べさせて、寒さに凍え死ぬことのない身なりもさせています。
あのお母さんは、「愛する」ができていなかっただけ。
けれども(映画を観るかぎりでは)裕福ではない暮らしで、シングルマザーで、教養や頼る人はなく、ダウン症をもつこどもを抱えて途方にくれるのは想像がつきます。
公式サイトにある、「心にぽっかりと空いた穴を…」には、お母さんも含まれるとおもうのです。↓↓
心に穴が空いた日々のなかで、あのお母さんは、愛でもって育てている。
ただ、こどもが健全に育つために必要なのは、「愛」と「愛する」の両方。
この両方がないと、こどもは幸福であるとはいえません。
こどもにとって何より大切なのは、血のつながり・両親の性別ではなく、愛の有無、「愛する」のありよう
一方、ルディとポールとマルコの “家族” には、「愛」と「愛する」があります。
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はじめて3人でごはんを食べたとき、ごはんを食べようとしないマルコに、ポールは「好物は?」と聞く。
マルコは「ドーナツ」とこたえる。
それに対してルディは「夕食にドーナツなんて体に悪いから」と言う。
ポールは、ラッキーなことにちょうど家にあったチョコレートドーナツを「たまになら害はないよ」と言って出してくる。
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この場面には、観ている人それぞれに感想や考え、価値観があるとおもいます。
以下はあくまでわたしの価値観にすぎないけれど、
ルディが教えようとした正しさよりも(←これは「愛」)、ポールがとった行いのほうが(←これは「愛する」。このあと詳しく書いています)、マルコが心を開くはじまりを与えたとおもいます。
緊張がやわらぎ、心はやすらぎ、見せたあの笑顔。マルコが見せたあの笑顔は、「愛する」(つまりは愛される)をもらったあとにあらわれる笑顔です。
ポールがとった行い…。それは単にドーナツを差し出したことではなく、
ポールは、ごはんを食べようとしないマルコに対して、「食べないの?」と尋ねたあと、「好物は?」と問いかけました。
ここ、すごい! 「食べないの?」➡︎「どうして?」「おいしいよ」じゃないんですね。
でもって、「君は運がいいな」とさらりと言うんです。(「私」を消している。あなたのおかげ感がない。おしつけがましくない)
すごいのはまだ続きます。チョコレートドーナツをマルコに差し出したあと、ポールは「食べなさい」とは言わない。つまり、命令や指示で次の行動を促さないんです。
安直なやり方である命令や指示ではなく、かといって、自律的な育ちをしてこなかった人に対して迷子にならぬよう、能動的な生きかたへの道標となる言葉かけをします。「食べずに見るだけ?」と。
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宣伝になりますが、ヨコの3部作の「怖れを手放して『愛する」をはじめよう」は、ここんとこの「愛する」を勉強しています。
デモクラティック(サドベリー)教育を学ぶ「オヤトコ学校 いい舟」では、「愛する」はじめ、自律にむけて勉強しています。
ご興味ありましたら、↑ 読んでみてください。
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ポールの言葉かけ(コミュニケート)は、相手を責めません。
わたしたち親は往々にして、自分のおもうようにこども(他者)を動かしたいとき、相手を責める言葉かけをしています(「そんなことでどーするの」「何回言ったらわかるの」など)。
つまり、相手を責める言葉かけをしているときというのは(わかりやすいのは、叱っているときや怒っているとき)、自分のおもうようにこどもをコントロールしたいときです。
(こどもさんとのコミュニケーションを勉強する講座はこちら >>>「親と子がハッピーになるコミュニケーション講座」)
いずれも、こどもに罪悪感や劣等感を与えてしまい、こころの奥底(無意識の領域)に「親への憎しみ」を根づかせます。
自分(マルコ)のことを愛おしく包んでくれるそのありようこそが、大切なものです。
マルコが見せたあの笑顔には。「愛する」「愛される」が響き合うもとには。「憎しみ」は生まれません。
はじめて3人でごはんを食べるあのシーンは、恐怖のないこの “家族” の暮らしから、マルコが(マルコだけじゃなくって、ルディとポールも)、自分の意見や好み、食べたいもの、したいことを発振していく、そのはじまりをしめしています。
映画の予告動画ではこのシーンに「3人は “家族” になった」ってあるんだけども、ほんとうにそうだなあ〜っておもう。このフレーズを考えたかたと会ってみたい!
映画のなかでは、マルコと母親の日々の暮らしの描写はなかったけれども、
親からドーナツを与えられていたんだろうなと想像できることと(ポールのそれとはまったく違う。こちらは、これこそが「母の愛情を受けずに育った」マルコ)、
実際にあった、音量をいっぱいにしていたシーンや、マルコをおいて夜に出かけるシーン、「少しだけ廊下に出てて。ママが…いいって言うまで」と言われたシーンから想像すると、「愛する(愛される)」がすこやかに育っていたとは思えない。
どんな家庭に生まれたら、しあわせなのか。
どんな家族と暮らせたら、しあわせなのか。
こどもにとって何より大切なのは、血のつながりや親の性別ではなく、愛の有無、「愛する」のありようなんだと気づかせてくれる映画です。
「愛する(愛される)」が体感できる環境であること。
偏見や差別が人を殺すとき
作品の舞台は1979年。
ゲイは忌むべき存在であり、障害者は哀れな存在という強烈な偏見と差別が、ひとつの “家族” を壊しました。
ルディとポールが 同性愛者であるという理由だけで、法は、“家族” を引き裂いた のです。個人の特性は無視して、です。
これ、ルディとポールのどちらかが女性だったら、きっと引き裂かれなかったんですよね。
個々の違いを見ずに、愛の本質を見ずに、あるカテゴリーに属していることで一面的な見方をして、差別する。
滑稽なのは、異性愛と、同性愛、どちらかだけが正しいわけではないのに、マジョリティが「常識」と化すことです。
そしてこの常識は、文化や社会状況、時代によって大きく変化します。
1979年には差別・偏見ととらえていなかったことも、いまでは差別だととらえられているのです。
『チョコレートドーナツ』の審理のシーンで、多くのひとは、偏見や差別でひとを見る判事や弁護士(上司と!)を腹立たしく観たとおもいます。
偏見や差別でもって判決が下されたことに憤慨したとおもいます(わたしも激怒したー!)。
けれども、あの「判事や弁護士」と「ルディとポール」の関係を、「親」と「子」の関係に置き換えて見てみると、
「判事と弁護士」が「親」で、「ルディとポール、マルコ」は「子」にあたります。
判事や弁護士、親には、親の考えや価値観があります。
そうして、おなじように、ルディ・ポール・マルコや、こどもには、こどもの考えや想いがあります。
「オヤトコ発信所」を読んでくださっている方のなかには、こどもさんが不登校をしていることで悩まれている方も多いかとおもいます。
なので「不登校」を例に出しますと、
学校に行きたくないと言っているこどもに対して、学校に行かなかったら将来がないとか、ちゃんとしたおとなになれないだとか、、、だから学校に行かなければならない、と言っている親さんとなんら変わらないです。判事や弁護士が言ってることは。
判事や弁護士、親が言っていることは、偏見や差別であって、本質ではありません。
そのことをしっかりと知らなきゃいけない。
自分では正しいとおもっていても、それは偏見や差別であり、それを押しつけることで、こどもを殺してしまいます(『チョコレートドーナツ』をラストまでご覧になると、事の意味はわかるかとおもいます)。
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『チョコレートドーナツ』は Amazon Prime、Netflix でも観られます。
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ルディとポールのように、差別された多くの人たち、関心をもつ人たちが声をあげ、今日にいたっています。
2015年には日本でも、東京渋谷区、世田谷区が同性カップルに対するパートナー証明書の発行を開始しました(2020年3月現在、大阪府、茨城県、札幌市、横浜市、福岡市、那覇市など33の自治体が導入済)。
2017年には全国初、大阪市で男性同性愛者カップルが養育里親として認定されました。
同性愛も不登校も、精神病のひとつといわれていた時代がありました。
↓↓↓ 必見記事です ↓↓↓
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映画『チョコレートドーナツ』作品情報
監督:トラヴィス・ファイン
脚本:トラヴィス・ファイン/ジョージ・アーサー・ブルーム
撮影:レイチェル・モリソン
プロダクションデザイン:エリザベス・ガーナー
衣装デザイン:サマンサ・クースター
編集:トム・クロス
音楽:ジョーイ・ニューマン
音楽監修:PJ・ブルーム
製作国:アメリカ合衆国
公開年:アメリカ 2012年 /日本 2014年
上映時間:97分
出演者:アラン・カミング(ルディ役)
出演者:ギャレット・ディラハント(ポール役)
出演者:アイザック・レイヴァ(マルコ役)
本作の原題は『Any Day Now』。
ラストで、ルディ(アラン・カミング)が歌うボブ・ディランの名曲『I Shall Be Released』は、心に訴えかけてきます。
Any day now, any day now
I shall be released
公式サイト >>> http://bitters.co.jp/choco