こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
学校に行けないこと(不登校)が問題なのではなく、学校を選べない(多様な学びが認められていない)ことが問題だと考えるよっぴーまりんのもとには、
下のようなご質問がよく届きます。
[box class=”blue_box” title=”ご質問”]
この春から子どもが小学校1年生になります。
子どもも私も公の学校には行きたくない(行かせたくない)のですがとりあえず最初だけ行ってみようかと言ってます。よっぴーさんならどうされますか? ご意見を聞いてみたいと思いました。
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今回はこの質問にお答えしますね。
もくじ
学校は行きたくないけど「とりあえず」最初だけ行ってみる?
※ 赤色の下線はわたしが引きました。
[box class=”blue_box” title=”ご質問”]
この春から子どもが小学校1年生になります。
子どもも私も公の学校には行きたくない(行かせたくない)のですが とりあえず最初だけ行ってみよう かと言ってます。よっぴーさんならどうされますか? ご意見を聞いてみたいと思いました。
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よっぴーならどうするか?
子どもが行きたくないと言っているのであれば、わたしだったら「とりあえず 行かない 」を選択します(実際にそうしました/下記参照)。
意見としては…
公の学校には行きたくない・行かせたくないとおもっていても、とりあえず最初だけ行ってみよう と考えているのなら、とりあえず最初だけ行ってみるのがいい のではないかとおもいます。
なぜかと言うと、親も子も行きたくない・行かせたくないとおもっているのにこのような質問をするときは、少なからず迷いや不安がある 状態だとおもうんですね。
この不安は厄介です。どう厄介かはこのあと書きますが、
こどもさんが、小学校に行きたくないと言われているその想いが強いものであったなら。。。そして親さんも行かなくていいと心底おもわれているのなら、質問は、「学校にどう言えばいいですか」になるんじゃないかな とおもいます。
少なからず迷いや不安があるときの精神的リスクは、「とりあえず行ってみる」より、「とりあえず行かない」のほうが高い気がします。
主幹となる教育観が軸を成す家、不機嫌な家
「うちはとりあえず行きません」と学校に伝えたとして、
学校が「はい、わかりました。また来たくなったときは連絡くださいね」と、
まるでこの選択が自然であるかのように対応してくれる時代では、今はありません。
「うちはホームスクーリングでやっていきます」、「うちはオルタナティブスクールに行きます」と言ったとしても、それらを選択肢のひとつとして認め、
「ああ、そうなんですね。わかりました」とこたえてくれる学校は少ないでしょう。
ホームスクーリングやオルタナティブスクール関連記事
>>>【不登校の原因と対応】小学生・中学生の不登校が増え続けるのは子どもの問題でも親の問題でもない
このような現状で、「とりあえず行きません」と学校に伝えて、学校が「そうなんですね。わかりました」という流れになるおうちというのは、
親が、公教育に対して、また、通う/通わないことに対して、確固たる考えをもち、
かつ、自分の教育観とは異なる人(学校や身内、そしてなによりわが子)の声に萎縮することなく、攻撃的になることもない 家庭だとおもいます。
こういった親さんには、
「でも先生はわかってくれるかな」
「認めてくれるかな」
「なんか言われないかな」
「なんか言われたらどうしよう」
「ご近所に変におもわれないかな」
「親(祖父母)にはなんて言えばいいのかな」
……といった思考回路はありません。ゆえに不安や戸惑いもありません。
わが家でも、息子が小学校に行かなくなったあと、中学校に上がるときの「行きません」に対して、学校からは「わかりました」で終わりました。
まりん さんも同様でした。「そうは言っても、とりあえず一度来てみたら?」的なことも言われなかったです。
主幹となる教育観が軸をなしていないうちは、「とりあえず行きません」と学校に伝えて、学校からなんだかんだ言われると、凹んだり、腹がたったり、逆らったり・逆らえなかったりするとおもいます。
その姿を子どもがみる のです。
自分の考えや価値観が異なる人の意見に、萎縮せず攻撃的にもならない人は、日頃から、ちょっとしたことにも敏感に反応して不機嫌になるようなことはありません。
こどもは、何事においても不機嫌にはならない親のもとではじめて、恐怖を感じず、NO(親とは異なる考えや選択、決断など)を言える のです。
「とりあえず行ってみる」と「とりあえず行かない」を選ぶために
入学前からの「行かない」に対して、「とりあえず行ってみる」「とりあえず行かない」の選択に迷いや不安があるのなら、今日から入学式の日まで、いまいちど、
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- 本を読んだり
- 確固たる考えをもち、かつ、自分の教育観とは異なる人(学校や身内、そしてなによりわが子)の話にも萎縮することなく攻撃的になることもない人(率直な人)に会いに行って話を聞いたり
- 率直な人のそばに居てみたり
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などして、
自分のなかにある(学校教育に対しての)違和感や危機感を、
伝えなきゃいけない人(校長や先生や親など)に、
自分のことばで率直に伝えられるよう(言い含められたり、ケンカ腰にならないよう)、考えを整える、をされたらいいとおもいます。
たとえば、次のようなことを言われたときに、カチンとくることも揺らぐこともなく「私共はこう考えます」と率直に伝えられるよう、考えを落とし込んでおくことは、のちのためにも大事です。
[aside type=”boader”]
- 「保護者として無責任ですよ」と言われたら?
- 「勉強についていけなくなりますよ」と言われたら?
- 「学校に来ないと社会性が育ちませんよ」と言われたら?
- 「集団生活ができない人になりますよ」と言われたら?
- 「友だちは大切ですよ」と言われたら?
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なお、先に書いた “本を読んだり” の書籍は、ご自身で探されてみて、読んでみようと思われた本を読むのがいいです。その上で、下記の書籍も参考になればとおもいます。
↓↓↓
学校って何だろう―教育の社会学入門/苅谷 剛彦
学校のしくみについて当たり前を問い直す本です。
「学校とはなにか?」や「どうして勉強するのか?」「教科書ってなんだろう?」「試験の秘密」「校則はなぜあるのか?」などなど、日ごろ疑うことをしない常識を疑い、よ〜く考えてみることを促します。
もとは毎日中学生新聞で連載されたもので、極めて平易な言葉で語られていて、とても読みやすいです。
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教えることの復権/ 大村 はま、苅谷 剛彦・苅谷 夏子
偉大な国語教師・大村はまさんと、その教え子・苅谷夏子さん、上記『学校って何だろう』著者・苅谷剛彦さんによる対談と論考です。
「教える」とは? 教える人は、自分の哲学を持って、学び続けなければいけません。
なにをどのように教えるかの違いにかかわらず、ひとりの教育者である親にとっても必要な姿勢が書かれています。
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大村はまさんの著書では、こちらもおすすめ → 新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)
独学のすすめ/加藤 秀俊
独学で勉強する方法……ではなく、主体的に学ぶという意味での「 “独” 学」。
学習意欲、知的欲求こそが学びの基礎であり、それはこども(学生)のときだけではなく、何歳でも、どんな場面でも、一生を通して続くものです。
進学や就職のための勉強、受動的な教育の場となっている学校に対する指摘も。
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学校の戦後史/木村 元
現在の、そしてこれからの学校について考えるには、まず学校を知るところから。
戦後70年史の前置きとして、戦前の教育制度についても解説されていて、社会とともに変遷してきた学校のシステム・役割を確認できます。
ほかの教育・学校関連の書籍を読み進めていくにあたっても、俯瞰図になる一冊です。
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子どもはお母さんの期待に応えようとする
「とりあえず行く」にしろ、「とりあえず行かない」にしろ、肝に銘じておきたいのは、こどもが言っていることは 本当にこどもの意見なのか ということです。
よくあるのは、
こどもに公教育を受けさせたくない場合 ➡︎ 「こどもも行きたくないと言っているし、行かせないことに(親が)決めました」というパターン。
と、その逆の、
なんだかんだで世間からの批判が怖いから、こどもを学校に行かせる場合 ➡︎ 「こどもは行きたいと言ってるから、行かせてるんです」のパターン。
「行きたくなかったら行かなくてもいいのよ」と口で言いつつ、目は「あなたが行くと言ったから高いランドセルも買ったのよ」と言う。
どちらも、無意識な親の権力がはたらいていて、こどもに「恐怖」を与えます。こどもの内には、学校に対する恨みと、親への憎しみが渦巻いていきます。
「とりあえず行く」をすると、行くのをやめるのは、(たいていの場合)たいへんです。
だったらはじめから「とりあえず行かない」をしておく、これもひとつの手だとおもいます。
けれどこどもは、“行っていて行かない” をするより、“行ってなくてちょっと行ってみる” をするほうが、ハードルは高い。
親の顔色をうかがうことなく、気軽に、行きたい(行く)と言える家にしておくこと。行きたくない(行かない)と言える家庭にしておくこと。
つまりのところ、「とりあえず行く・行かない」なんていう学校ありきな発想から解放されないかぎり、こどもを恐怖に対する敏感さから解放することはできません。
>>> 関連記事 「学校は無理に行かなくてもいい」と不登校の居場所探しをするときの落とし穴
だからこそ、自分の哲学を持って学びつづけていこう。