こんにちは、AI-am(アイアム)の吉田 晃子です。
10月5日に岐阜県多治見市で開催された「 篠秀夫×浅井智子トークセッション 」で、冒頭、篠秀夫さんはインド・バラナシの火葬場の話をされました。
薪を校に組み、その上に、人間の遺体を載せる。焼く。それは魚となんら変わりないと。
※ トップの写真は、藤原新也著書『 印度放浪 』より
ニンゲンは犬に食われるほど自由だ
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」は藤原新也さんの言葉で、インドのガンジス川辺で、焼かれずに流された死体を、野良犬が食べている写真に添えられている言葉です。
──しかしインドを旅していた私には不思議だとは思えなかった。人間の値段はそんなに
高価ではないということを、その旅でよく思い知らされていたからだ。ニンゲン、やっぱり
ただの生き物、にすぎないのであった。
だから、生きとし生けるものが墓を持たぬように、この地ではニンゲンも墓を持たない。死
ねば焼いて灰や河や海に捨てたり、鳥に食わせたり、屍をまるごと河に捨てたりする。自然
に返してやるのだ。
それをたとえ野犬の群れが食らったとしても、ごく自然なことなのである。
つまり、ヒトとは犬に食われるくらい自由な生き物なのである。
私はこれを、実に感動的なことだと思った。美しい光景だと思った。インドという国はやはり
凄い国だと思った。私は野に咲く花を撮るようなつもりで、それに向かってシャッターを押し
たのである。
出典:東京漂流 (朝日文庫)
すべての生き物は等価値で、人には犬に食われる自由がある。というもの。
篠秀夫さんも言いました。
魚といっしょだと。
ニンゲンだけが偉いんだとおもうからへんになるんだと。
「笑顔でつながる子育て・自分育て」というテーマがつくお話し会の冒頭で、人間が焼かれていく光景と、藤原新也さんの本のことを話す篠秀夫さんに、わたしは強く興味をもちました。
人が “生き物”として生きているインド
トークセッションのあともたれた懇親会で、篠さんに、『 印度放浪 』を10歳のときに読んだこと、わたしもバラナシで人が焼かれる一連を見たことを告げるや、いっきに話は広がりました。
インドでは死は日常で、日本のように隠蔽されることはありません。
路地では犬も牛も烏も鼠も菌も神も人も暮らし、住んでいます。
臭いものに蓋をしないインドでかんじた(観じた+感じた)ことを互いに語り、いのちの尊厳について語り、教育は「生」すべてにつながっているという見解に話は盛りあがっていくのでした。
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世界共通語
「でも、よっぴーたちって英語しゃべれないんだよね?」と浅井智子さんが聞きます。
わたしが答える前に篠さんがこたえます。「そんなのできなくても行けるよ! 彼女は感情(感覚)で話せる人だから。ただし度胸はいるけどね」
その通り。
最近おもうことがあります。言葉(英語)に甘えてしまうと、感情で話せなくなるんだろうな、と。
何気なく毎日使っている言葉をなくす経験がありますか?
言葉がわからないから、頭で蓋をすることがないんですね。
子どもは感情で話します。
海琳さんがまだ子どもだったころ、宿でいっしょになったどこかの国(たとえばスペイン)の子どもと、それはそれは賑やかにおしゃべりして遊んでいます。
相手はスペイン語、かたや日本語で、なんも通じていないのだけど、五感すべてでわかりあっている。あのかんじ。
家族で旅をする
深夜に目が覚めて部屋の電気をつける愚かさや、白いシーツの贅沢さなど、バックパックの貧乏旅行の話に花がひらきました。
そしてね、篠さんと言ってたこと。子どもさんと海外に行くのはいいよ〜、と。
わたしは旅に出るたびに家族が一つになっていくことを実感していました。
子どもが学校に行っていないのなら、いつだって行けるしね。
旅には人を育てるいろいろな要素が含まれています。世界がひろがるし、価値観の違いに対して柔軟になります。
第一、楽しい!