こんにちは、AI-amの吉田 晃子です。
ガンガー(ガンジス川)が流れる、インドヒンドゥー教の大聖地として有名な死出の地・バラナシ(Varanasi)。
このバラナシの感想と写真と、火葬場を通して異文化を理解することを知った藤原新也『印度放浪』のことを書いています。
『印度放浪』
もっとも古い本の記憶はなんですか?
1972年、当時10歳だったわたしは、入院していた病院の図書室で、藤原新也著書『印度放浪』と出会いました。
4歳? 5歳? ころから地図を見るのが好きで、このときも「インド」が目に付いたんだとおもう。
『印度放浪』で、14歳の “バル” というあだ名の少年のことが書かれている章、「少年」があるんですね。この「少年」の章を読んだとき、ひとりでに涙が湧くように溢れ出て、堰を切ったように泣いたことを鮮明におぼえています。
バルと藤原新也
「少年」の章で、
じっとたたずむバルの後ろ姿は、いつものように滑稽には見えなかった。そこには、妙に人の気持をそそる、何かがあった。ぼくはその時、その少年の後ろ姿を見ながら、何だか自分の後ろ姿を見ているような錯覚に、とらわれたのだった。
引用:『印度放浪』
と書かれた箇所があるんですね。
泣きやむまでにどれぐらいかかったのだろう。
バルの後ろ姿を見ながら、自分の後ろ姿を見ているような錯覚にとらわれた藤原新也の、その後ろ姿を見ている自分がいました。
藤原新也さんは、 8歳で子どもをやめたわたし が、はじめて認めた “おとな” だったんだとおもいます。
藤原新也さんに救いを求めたかったんだろうな。けれどもそれは、病室の、あまりに小さい窓からでは届かなかった。
バルが、バルの構築した小さな世界から、小さな鉄砲をかつぎだして、屋上を走り回ったように、わたしはわたしの構築した小さな世界の片隅に、藤原新也さんとインドを棲ませて、明日を走り回っていた。
「火葬」
はじめ、写真を見たとき、それが何を意味しているのかわからなかった。
↓は、『 印度放浪 』に載せられている藤原新也さんの写真です。
『印度放浪』の「火葬」の章がリアルにかんじられたのは、実際にバラナシに行ってのことです。
一日中、焼かれたり、流されたりする死体を眺めていた。一個の肉体から灰になっていくまでずーっと。匂いもかぐ。
異文化を理解することは容易なことではないです。
文化には、見える側面(食事の仕方、建築物など)と、見えない側面(価値観、人生観など)があるけれど、そもそも目に見えている文化でさえ、自分が持つ常識に縛られていては、理解ははるか遠い。
理解を深めるためには、なにはともあれ、自分を客観的な立場に置く必要があります。まずは他者の行動を観察すること。これって子育てとおなじですね。
日本では隠されているものが、無い、ここバラナシはそれを可能にしてくれました。
管理下に置かれた日本で消されてしまった「生」と「死」。
わたしがみたバラナシ
遺跡に寺院、朽ちた家々、ゴミ、うんこ、嘔吐物、聖人、怪人、凡人、死に人までも、すべては、同等に悪びれることなく、おてんとう様の下にさらされている。それら一つひとつを切り分けるなんてことはできない。
たとえば、キリスト教が美術館を移動できる絵だとしたら、ヒンドゥー教というのは、その場から動かせない壁画みたい、と思った。だから他の宗教のように世界に飛び火しなかったのだろうか。聖なる河・ガンガー(ガンジス河)がそこにある限り。
死出の地・バラナシ。「火葬場が町のために存在するのではない。町が火葬場のために存在するのである」
聖なる地を流るるガンガーで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられているため、インド各地から多い日は百体近い遺体が運び込まれる。また、インド中からこの地に集まり、ひたすら死を待つ人々もいる。
火葬場はガンガーの河辺、野外にあり、「人が死んで、焼かれたら、煙と灰と骨になる」というシンプルな事実を見せる。シミひとつない真っ白な世界がつくられた施設で、密閉した炉に入れられた肉体が、次に見るときは、骨に変わっている日本とは違う。
薪を校に組み、その上に、ガンガーで洗い清めた遺体を載せる。そして親族の代表が薪に点火する。人一体が完全に燃えるには、およそニ、三時間かかり、必要な薪の量は、二百から二百五十キログラムほどだそうだ。
用意した薪がすべて燃えてしまうと、川の水をかけて火を消す。そして骨はガンガーに撒かれ、流れていく。自然に還る。それでおしまい。お墓はない。
お金が足りなくて燃え尽すだけの薪が十分に買えない人は、その分だけが焼かれ、骨になる前、黒い塊が、河に流される。まったく買えない人は、火葬されず水葬となる。また、人生を充分に生きていない子どもや、その子どもを宿している妊婦さん、サドゥーなども、そのままガンガーに沈められる。
野良犬が、焼け残った足首の肉片を食べている。上空ではカラスが狙っている。野良牛に野良山羊も残骸を食べにきた。焼き場の男はそれを追い払うでもなく、なすがままにしていた。
傍でボール遊びをしている子どもたち。ボールが時折、炎に包まれている死体のところに飛んでくる。そのうちのひとりが取りに来て、仲間に投げ返す。何事も無い。遊びは続く。誰も咎めなどしない。
後ろからも笑い声。たのしそうなおしゃべりをしている大人たち。
火葬場のすぐ隣は、ドービー(洗濯屋さん)が洗濯をしている。洗った衣類は、河辺の地面に干していく。その横では、牛が、日がな一日、河に浸っている。そのまた横では、人が、沐浴し、体を洗う。河水を飲む。立ちションをしている。
生活排水、ゴミ、糞尿。あらゆる生き物の死体までもが浮いている。ガンガーに流れていないものはないのじゃないか。断絶がない。死が生の彼岸ではなく、同じ岸辺に存在していた。
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町を奏でる音。大地の上で響き渡るヒンドゥ語、けたたましいクラクション、鐘の音、鳥の鳴き声……。
町を漂う匂い。人々の脂と汗の体臭、牛糞、横たわる死体、生ゴミ、性を誘うジャスミン……。
耳は麻痺し、鼻はひんまがり、大仰な砂煙で目はいかれ、安オイルの排気ガスは喉も撃ち、五十度ちかい気温が追い打ちをかける。それでも五感はフル活動する。
好奇心に身を任せて、あちらこちらと漫歩く。大通りから一歩小径に曲がると、無数の細い路地が入り組んでいた。路地には、
犬も
猫も
猿も
牛も
鳥も
虫も
鼠も
菌も
神も
人も
暮らし、住む。
人が “生き物”として生きている。人の感動や、喜びを解放するだけではなく、痛みも、悲しみも解放されている。
「精神」から「数字(物)」へと、価値の対象を変えたこの国では、ニンゲン様気取りでモノ言うが、多くのインド人は、人間のことを、まったくダメな生きものだと思っていて、そして自分たちのことを、そんな生きものであると知っていて、だから、覚悟して人間をのびのびと勤めている……。
バラナシには年間百万人を超える参拝客が訪れるそうで、今日も、ガンガーのほとりに並ぶガート(沐浴場)では、日の出前から沐浴し、祈りを捧げている。
神の存在を誰もが信じている。その姿、真摯さは、あまりに美しく、眺めているうちにぽろり涙がこぼれた。
善い悪いではなく、何かを信じること。信じきること。信じると力が出る。信じないと力がでない。信じるという強さ。 信じるという安らぎ。 信じられるというしあわせ。