こんにちは、AI-am(アイアム)の よっぴー です。
よく受けるご相談にこんなものがあります。
小学1年生や2年生の低学年のこどもが「学校に行きたくない」と言って泣く(保育所や幼稚園に通うこどもの場合も、高学年以降も)。。。
だけど、まあ、無理やり送っていき、こどもだけ学校に置いてくると。。。
下校してきたこどもは、案外ケロっとしている。
で、よく朝、こどもはまた泣く。。。
くりかえし。
このくりかえしをくりかえすのは、執着を生むのでやめたほうがいいと、わたしはおもいます。
もくじ
行ってしまえばどうにかなる?
無理やり送っていく、という行為はつらいです。
しかし、学校から帰ってくると、こどもはケロっとしているんですよね。
「学校どうだった?」とたずねると、こどもは「楽しかったよ〜」なんて言います。担任の先生も、「ふつうにしてますよ」と言われる。
行ってしまえばどうにかなる? だったら、親も、無理やりでも学校に送り込んでしまいたい気持ちになってしまいます。
けれど、
教育を受けなくてもいい、、、
とりあえずその場所にいればいい、、、
そんな「学校にさえ行っていればいい」という考えは問題の本質にフタをするから、 単なる不登校 を、問題ある「不登校」にして、のちのち、思いも知れないほど大きな苦痛となってのしかかってきます(「不登校」で長いこと苦しむ原因はこれ)。
智慧を信じないと執着を生む
なぜ、くりかえすのをやめたほうがいいのか?
こどもに、「~ねばならない」「~であるべき」という執着を生むからです。
お母さん(他者)の言うことをきかないと愛されない。
愛されるためには良い子でいなければならない。
頑張らないといけない。
執着ほど厄介なものはありません。
執着は悩みと苦痛を伴います。
もうこれ以上頑張れないのに、休んではいけない。
今の自分のままではダメだから、絶対に成長しなければならない。
執着を解くのがどれほど厄介かは、わたしたちおとなのよく知るところです。
学校は「行く」ところであって、「行かせる」ところではない
担任の先生は言うんですよね。
「連れてきてください」と。
「1時間だけでも登校できませんか?」と。
「早退とか遅刻はしてもらっていいから、ゆっくり慣れていきましょう」と。
カウンセラーさんや専門家の方も言います。
「行きたくないのではなく、お母さんと離れたくないだけですよ。だから……」。
「行けないことは悪いことではないですから、怒らないようにしてあげてください」。
「行かない選択は最後にとっておきましょう」。
そうか?
学校は「行かせる」ところじゃありません。
学校に行きたくないのではなくて、学校に居たくない
小学1年生や2年生のこどもが、毎朝「学校に行きたくない」と言って泣くが、帰ってくると案外ケロっとしているのって、
学校に行きたくないのではなくて、学校に居たくないのじゃないのかな?
学校に居たくない何かがあって、それで行きたくないんじゃないんかな?
玄関でお見送りのときに、毎朝「頑張って行ってらっしゃ〜い」と声をかけたりするようですが、学校にしろ、仕事にしろ、頑張って家を出るなと言いたーい。(執着って超強力ボンドでくっついているんだね)
[box class=”blue_box” title=”Hot News”]でも仕事休めないし、とか、一日中いっしょに居るのは気がもたないし、、、っていうんなら、こどもと話し合えばいい。
「話し合い」の勉強会、やりますよ。 やりました。
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今日の本
学校へ行く意味・休む意味: 不登校ってなんだろう?/滝川一廣
なぜ、人は学校へ行くのか? 「不登校」理解、ここから、はじまる!学校が生まれた理由、立身・出世の夢、戦後ニッポンの大変化、高度経済成長の夢と希望、失われた学校の聖性、そして増え続ける不登校…さぁ、深く考えてみよう。
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