多数派のなかにいると安心、少数派のなかにいると不安、という人がいます。
社会のなかで少数派と呼ばれる人たちが、楽しく暮らすことについて。
「みんな」の安心・「ひとり」の不安

人は、いくつかの区別に分かれるとき、数の多いほうにいると安心することがある。
その安心、そして数の少ないほうにいるときの不安てのは、なんだろう?
大多数が乗る船がたとえ沈みゆく船だとしても、勇気をもってひとりで海へ飛び降りるより、みんなと一緒に船に乗ったままでいることを選んだりする。
前に、そういうジョークがありましたが。
ようは、うしろゆびをさされたくないわけです。それはどうしても、避けたい。
いつも友だちと仲良く一緒にいたい人もそれと似ているかもしれない。
ひとりでいることへの奇妙な偏見にみんなうしろゆびをさすから、自分はさされる側にはなりたくない。
ひとり飯とか、ひとり映画とか、わざわざ強調しなきゃなんないことではないのに。
別に、誰かと行かなきゃいけない場所だなんてこと、少しもないのに。
うしろゆびをさされることを恐れる必要はない
たとえば、学校に通わない子どもは、通っている子どもの数よりも、少ない。
ここで人々は、多数派と少数派に分けられます。ごく単純に。
そういえば近ごろ、「不登校」を「容認」する大人たちが少しずつ増えているのは、学校へ通わない(あるいは通えない)子どもの数そのものが増えたからだろうなとわたしは思っています。
だって、文科省が発表した数だけでも12万人いる。数で勝つことはなくても、ちょっとした安心材料にはなる。なって、しまう。

自分がこれだと思ったものや、自然といた場所がたまたま多数派だったら、とくに問題はないはずです。
それが少数派ということになると、人はいろんな行動をとる。
不自然でもちょっと無理をしてでも多数派のほうに紛れこんだり、なるべく姿を見られないようにしたり、あるいは進んで非難されにかかって、自分の正当性を主張したりもする。
そのどれも、個人的にはあんまり好きではありません。
うしろゆびをさされることを恐れる必要はないし、いざ衝突してしまったならともかく、日ごろから真っ向に喧嘩を売るようなのもなんかな、という感じがする。
じゃ、わたしはどうしようかというと、こっちはこっちで楽しくやってよう、と思うわけです。
「楽しい」のエネルギー
天岩戸神話のように、楽しげなものは、気になる。ちょっと、覗いてみたくなる。
少数派に属するという人たちが、めちゃめちゃ楽しげにそれを謳歌していたら、少なくともしかたなく多数派に紛れこんでいった人たちは、揺らぐ。あるいはうらやましいし、ねたましい。あるいは、じゃそっちへ戻るか、ということもある。
これは、少数派を多数派にしようってことではありません。
数を求めるなら、どっちがどっちになったところで、それほど大差はない。
楽しくやりたい。
社会がいつかわたしたちにうしろゆびをささなくなるのを待っているうちに、楽しい時間は流れ去っていってしまう。
少数派や多数派があるのは、当然のことです。いくつかの種類にわけたら数に違いがでるのは、当たり前。
そのどれもが非難されることなく共存することも、そんなのは言うまでもないことのはず。ほんとは。
そういう社会になったらいいなと思うなら、そういう気持ちで、暮らす。
なんだかみんな楽しげに暮らしている日々がきてほしいと思うなら、そう思う人たちが、いまから楽しむ。
楽しく、やろう。
楽しく、やってます。