総体の「こども」と個体の「こども」を分けること、重ねていくこと




こんにちは、AI-am(アイアム)星山海琳 です。

昨夏、わたしたちの元にやって来てくれた黒ねこのふたつちゃんは、およそ一歳になります。

それよりも二年早く出会ったのが吾輩で、彼女がわたしにとってはじめて一緒に暮らすねこ。その二年間と、ふたつがやって来てからのより重層的な十ヶ月で、毎日ねこたちのことを考えていました。

そのひとつは、総体としての「ねこ」を知ることと、名前をもつ唯一の個体である目の前の生きものについて知ることはまったく別で、その二つを時に分け、時に重ねてその子を尊重していくのが、わたしの責務なのだということ。



総体としての「こども」、個人としての「こども」

「こども」と書くとき/言うとき、わたしたちも、おそらく誰にとっても、総体としての「こども」を指しているときと、たった一人の個人を指しているときがあります。

いちいちどちらの意味かと書き添えはしないし、言葉を受け取るときにもこれはどちらの意味かと毎度考えはしない。
人対人の言葉の受け渡しの中で微妙なニュアンスを汲み取っていると、無意識の作業であるだけに、ときどき齟齬が発生します(そもそも発し手が適当に言葉を用いていたり、注意を欠いている場合もあります。これはまた別問題……)。

無意識にやっていることをすべて意識していくと人はおかしくなってしまうので、たまに、少しずつ、自分の内外の動きを捉え直していくのがいいと思う。

 

どうやって道を曲がるのか

わたしが昔、10歳か11歳くらいのころかなあ。
デモクラティックスクールで過ごす日々が終わったあと、どこにも属さずにいて、ひとつのことに熱中するようなタチでもなく、とくに退屈しているわけでもなく、するとなにか用事でもない限りはそうそう家から出ることもないわけです。

引きこもっていたいんではなくて、用事や目的があれば外出もするんだけれども、用事や目的がそんなに頻繁にあるわけもないし、外出するためにわざわざ用事を作ることもしないので、結果引きこもりスタイルになっているという、そういう状況です。

それで、ある日なんとなく、自宅から徒歩40分くらいの大きな公園にふらっと出かけたんですよね。
そのときの帰り、計2、3時間くらい歩いてやっと、わたしってどうやって道を曲がったり、石を避けたりしているんだろうと不思議になって。いかにも暇な考えというか、まさに暇だったからなんですけど。

歩きながら、よくよく自分の足の動きを見て、へーこのへんで曲げて方向を変えるんだ、こんなふうに筋肉を使ってるのか、すごいけど変だな、みたいなことを思いながら帰って。それで何がどうなったわけでもないんですが、そういう何気ない作業が、自分との親しさを深めていくんだろうなと、今になっても思うのです。

 

総体を身近なこどもに置き換えてしまうとき

話がそれてしまったけど、「こども」のことです。

ひとりの子どもについて一対一で話せる場でもない限り、たとえばこういうインターネット上で公開されている文章もそうですし、本や講演などもそうですけど、ある程度は総体としての「こども」を指すことを避けられない部分があります。

そして受け手は時折、「個」である身近なこどもを、総体のそれで置き換えてしまう。これはとても危ういことです。

総体それ自体は必要なもので、たとえばわたしが、ある一面では気軽さをもってねこと暮らすことができているのも、総体としての「ねこ」が紐解かれてきたからでもあります。
でも、たとえば星座占いの結果に「寄せていく」ような真似をしたり、言動を血液型に「当てはめる」のは、どうも違う。

知識として重ねて見るのと、個々の現象として分けて見ていくのと、どちらも欠かせないことなんですよね。

 

自分なりの目と尺度

吾輩とふたつ、二匹のねこがいて、どちらも「ねこ」なんだけど、彼女らはもちろん同じではないわけです。
兄弟姉妹のそれぞれの性格の違いなんかにも似たような表現をしますが、それを「個性」とか「多様」といった表面的な受容で済ませるべきでない場面もあると思うんですよね。

「個性」や「多様」の言葉に押し込めたとたん、個々の現象を見る、感じることは、すっかり難しくなってしまう。そういうとき「個性」や「多様」は広い意味での総体になって、本来その言葉が拾い上げようとしていたものを蔑ろにしてしまう。

 

わたしたちは、個々を個々のまま捉えるのを、本当にめんどくさがるんでしょうね。大きい袋にどさっと入れてしまえば楽で、でもあとから見つけるのに苦労をする。

変わらずにいてくれるものならまだいいけれど、飴やチョコレートのように溶けて、溶けたままの形で固まってしまうものだったら、取り戻しようもない。砕いてみても元の形にはならないから、はじめの姿を取り戻すには、もう一度溶かして、型を探し出さなければいけない。

誰でも、もちろんわたしも自分なりの目というのを持っていて、それを手放す必要はなくても、その目を通したものを尺度にしないくらいの努力は続けていたい。わたしは彼女らの「個」のそばにいたいからこそ。

 

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