わたしがおもう、子どもに願うこととそのために親ができること

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こんにちは、

AI-am(アイアム)
よっぴー です。

わたしがおもう、子どもに願うことと、
そのために親ができることわたしがしてきたことを書きました。

と、家庭でサドベリーのお知らせです。

親がこどもに願うこと

わたしがこどもに願うこと、それは、「しあわせであってほしい」です。

こども自身 しあわせとかんじていること。

ああ〜今日も1日楽しかったなあ〜、ってかんじで1日が終わる。お風呂場で鼻歌なんて口ずさんでいる。そんな暮らしをしていてくれたら、うれしい。

親がこどもに望むこと

こんな子に育ってほしいと望むものはない(なかった)です。

たとえば、

思いやりのある子、、、
頭のいい子、、、
自分に自信が持てる子、、、
友だちを大切にする子、、、
社会で自立できる子、、、

親がこどもに望むことは他にもいろいろあるんだろうけど、それらを希望することは、一つの固定した枠を与えるようなことになるじゃないですか。

わたしは能天気だから、そういった発想がなかったんです。

親がこどものしあわせを決めるのではない

こども しあわせかどうか。
こども自身 HAPPYと感じているかどうか。

親のわたし「が」ではないんですよね。

こどもに、親のわたしが望むなにかをさせて、それでわたしが安心したり、満たされる、そんなのイヤ。


それはこどもを他律にしていくことです。

しあわせは、みんな自分が知っている。
だれもが自分自身の人生の道程のリーダー。選択の決定者です。

決して、親「が」、こどものしあわせを決めるのではないのです。

そのために親ができること

親が、こどものしあわせを決めるのではなく、こども自身がしあわせであるために、つまりは自由であるために、親ができること、それは、他者(こども)の自由を侵害しないことです。

こどもが感じたことや考えたこと、おもったことを、こども自身が大切にできるよう、
それらを親の支配愛のせいで、ポケットにしまわなくてもいいよう、

こどもが感じたことや考えたこと、おもったことを、親であるわたしは否定しないよう、粗末にせず、大切にしてきました。

こどもがそれらをポケットにしまわなくていい環境を維持するために、親のわたし(とパートナー)主導権を握ったり親のペースに巻き込んだりしないよう、自身を律してきました。

「言ってきかせる」はNG

とはいえ、こどものペースに合わせられないときもあります。

たとえば公園で遊んでいて、そろそろ帰らないといけない時間なのに、こどもは「まだ遊びたい!」と言うようなとき。

状況や環境、心理などさまざまな背景はあるけれど、「言ってきかせる」んじゃなく、こういうふうに困るんだということを、相手に伝わるように丁寧に話してきました。

このひと手間ひと手間の積み重ねで、親と子どちらもが、前後左右の、人と人(親と子)との「間合い」というものを肌でわかっていきます。


で、こどもの、「こどもが感じたことや考えたこと、おもったこと」を聴きます。
で、話しあっていきます。
で、親と子でルールを作りあっていくのです。

決して、親にとって都合のいい、または親が善しとするようなルールをつくっていくのではありません。

うまく言いくるめて従わせる、なんてことはご法度。これは他律です


民主的な対話を通して、目の前にある問題を解決していく。

小さなころからの、他者からの指図を受けずに自分の思考力を用いて発言していく経験は、決意勇気をくじきません。

模範の正体

先生には、これが「善し」、とされた模範があります。

お母さんにはその価値観が染み込んでいます。

ピアノを習っても、たいていはいきなり自分が弾きたい曲を弾かせてはくれなくて、基礎からはじめなきゃいけないんですよね。
ドレミから入っていくのが正しくて、自分の弾きたい曲から入っていくのは正しくない。

模範精神でこどもと接していると、こども自身が感じたことや考えたこと、おもったことを、ポケットにしまわせてしまい「選択の決定者」の権利 をも奪います。


なにか AB があるとき、たとえば、

明るい子と暗い子なら、明るい子

友達が多い子とふたりいる子となら、友達が多い子

学校に行くと行かないなら、行く

が善し、みたいな感覚も植えつけます。


いつだって、模範には正しさがあるんですよね。それ以外のものは正しくないんです。

シンプルなことを複雑にして、複雑なことをシンプルにするというかさ。

先生とお母さんとよっぴーのちがい

模範は外から恣意的に定められた権威主義。
他律の要素にほかなりません。

だから先生はそうやって「あなたはマルですね/ペケですね」と、こどもを評価していく人。

お母さんはそれを心配する人。ペケ、と思っているほうにこどもが向かっているとき、どうやってマルに直せばいいんだろう、と悩みます。


わたしの場合は、先にデモクラティックスクールや、デモクラティック教育、デモクラティック精神(サドベリースクール/教育/精神)を知っていたんじゃなくて、

(いまはカッコつけちゃったりなんかもして後付けしてるけど)天然で、ひたすら能天気でした。
わたしはどこかの要領に載ってるような「模範」がなかった人でした。

ただ、ただ、こどもがやりたいって言ってることを、やっていることを、うしろから見ていただけでした。

その結果が、いまのまりんさんです。


先生は、こどもの上に立っている。
お母さんは、こどもの前にいる。
わたしは、こどもの後ろを歩いてきた。

7月5日、「家庭でサドベリー」はじめます。

スタートになるレッスン1のテーマは、先生とお母さんとよっぴーのちがい。
こどもは大人が導くほうがいいとおもう人は、もちろんそれでいい。

前回の記事にあった「民主型スタイル」がいいとか、デモクラティックスクール・サドベリースクールの精神を取り入れていきたいっておもう人は、ぜひ来てください。

レッスン1は入門編です。気軽な気持ちで覗いてみてね:)


家庭でサドベリー
Lesson.1「先生とお母さんとよっぴーはどう違う?」 in 東京 2019年7月5日(金)

会場参加、web参加ともにお申し込み受付中です!
詳細・お申し込みはこちらから ↓↓

こちらのイベントは終了しました。
現在は「オヤトコ学校 いい舟」にてご覧いただくことができます。

「オヤトコ学校 いい舟」の詳細はこちら

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