こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
春って、やさしそうに見えて、案外やさしい季節ではないな、と思う。
引っ張り出そうとしたり、新しさや変化をおしつけてきたり。
善意のふりをしているそれは、大人の善意とも似ている。
桜をおだやかに眺められるひと・眺められないひと
春って、うつになりやすいらしい 。
気候の変動のせいとか、環境の変化や新生活によるストレスのせいとか。
小・中・高に通わず、就職もしていない わたしは、これといって新生活というものを経験したわけでもないし(あ、「大学入学」っていうのはあった)、苦手意識が生まれるようなことはしていないはずなんだけど、春がにがてだ。
「桜がなによりもかわいらしくてやさしいものみたいに、おだやかに眺められるひとになるかならないか、どのあたりで決まるのかなあ」みたいなことを、友人と話したことがある。
きれいじゃないということではないし、通りがかりに立ち止まって見上げたりもするんだけれど、あまりこちらに寄り添ってくれるような季節ではないよな、と思う。
春のやわらかな圧力
春は内側にこもることに不寛容だし、外へ引っ張り出そうとするし(そうでもしないと冬眠からさめないのかな?)、出たら出たで新しさを強いてくるし、なんというか、善意によるやわらかな圧力が、とてつもない。
もちろん、そう感じないひとたちもたくさんいるだろう。
たぶんそちらのほうが多いのだけれど、どっちが多数派とかはどうでもよくて。
ただ、「そう感じない」ことが「当たり前」で、「それ以外」は「おかしい」と思っているひとたちの存在がまた、桜をこころおだやかに眺められないひとたちと春との距離を育てていく。
そもそも春は、「がんばる」に適した時期じゃないような気がする。ねむたいしな。あったかいし。まだ、まどろみのなかにいる。
夏には、裏側とか余白とか、にがみとかそういうものがあるから、そのつもりになって「乗っかってやる」こともできるんだけど(と、まだ夏がきていないのをいいことに、考える)。
善意という盾
春の善意というのは、大人の善意とも似ている。
寄り添う気はないのに、(家や小部屋にいたくても)ひなたに引っ張り出して、新しさや「これからのこと」を求めてくるような感じ。
善意を盾になにかを正したり、導こうとするのは、どんなにやさしそうでも、実際とても不寛容だ(「よかれと思って」とか)。
でも、春の夜はすごく好きだな、と思う。
正論や善意抜きで、春を感じられるからかもしれない。