こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
親はけっこう、理不尽だ。
「好きなことをしなさい」と言ってまもなく「ゲームはダメ」と言ったりする。
こんなところに信頼関係は生まれるわけがないし、親子のあいだに必要なのは本音であって「うそ」や「建前」ではないと、わたしは思う。
親の理不尽さを子どもは知っている
親はときどき矛盾のかたまりになる。
「好きなことをしていい」「夢を持ってほしい」と言いながらゲームはダメとか、Youtuberはダメとか。
「生きていたらそれでいい」「元気で育ってくれればそれだけでいい」と言いながら成績で態度を変えるとか、口の悪さがどうとか。
「言っていることが違う」ひととか、「本音を話してくれない」ひとには、他人どうしでも、安全のために心の距離をとるようになるもので、こういうのは、子どもとのコミュニケーションにはなおさら影響する。
子どもは親が本音で話しているかどうか、自分(子ども)のためを思って言っているのか親自身のために言っているのか、直感ではっきりとわかるし、そのうえ親は他人どうしの場合とは違って、子どもには高圧的だったり、威圧的だったり、過剰に感情を振り回したりする。
親って、けっこう理不尽だ。
で、幼い子どもは他人とちがって、その理不尽さから離れることもできない。
やんわりと強要する親を信頼することはできない
「好きなことをしていい」「夢を持ってほしい」と言いながらゲームはダメとか、Youtuberはダメとか。
「生きていたらそれでいい」「元気で育ってくれればそれだけでいい」と言いながら成績で態度を変えるとか、口の悪さがどうとか。
ほとんどの場合、「好きなことをしていい」という気持ちも「元気で育ってくれればそれだけでいい」という気持ちも嘘じゃないし、「ゲームは嫌」という気持ちも嘘じゃない。
みんな好き嫌いはあるから、ゲームは嫌だな、と思ったり感じたりすることも、もちろん悪くない。
でも、「好きなことをしてほしい」「自分らしく生きてほしい」と言う一方で、
ゲームはダメ、Youtubeはダメでアニメもテレビもダメ、昼夜逆転も引きこもりもダメ、勉強はして、家の外に出ても恥ずかしくない身なりと言葉遣いをして、野菜も食べて、友だちをつくって、誰とでも笑顔で話をして……ということを、暗に強要する。
これで親を心から信頼しろ、なんでも素直に話して、というほうに無理がある。と、わたしは思う。
ちなみに、いわゆる根っからの「教育ママ」のいいところは、ブレないところだと思う。
こういう価値観の人間なんだな、ということを、子どもはよく理解できる。
わたしは「教育ママ」のもとで育ちたいとは思わないし、幼いうちはそれに従うしかないけど、抑えつけられたものが大きければ大きいほど、年齢を重ねれば大きな反発も脱出もしやすい。
でも、親自身も無意識な、理不尽な矛盾は、真綿で首を締めるようなもので、とてもくるしい。
本音だけで付き合う
よっぴーが以前、親子の信頼関係について書きました。
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このなかで、わたしは「どういう親だったら信頼できるの?」という質問に対して、「うそがないこと」と答えました。
これは、強要や理不尽さをもたずに、「本音だけで付き合うこと」でもあると思う。
よっぴーは、子どもに対して「うそなく」「本音だけで付き合う」ことができるひとだったけど、それはとてもまれなことなんだと、あとから知りました。
純粋な、見返りを求めないメッセージはうれしいし、子どもはおなじものを返そうとする。
上記の記事のなかで、よっぴーは
条件を付けないと愛せない人は、子どもへの愛が不足しているんじゃない。 単なる経験不足 なんだと思う。
と書いているんだけど、これはまったくその通りだと思う。
「無条件に愛する」、本音だけで付き合う、ということを先天的に、本能的にできるひとも中にはいるけれども、ほとんどの場合はそうじゃない。
ほとんど誰もが、知っていることしか知らないし、知らないことは知らない。
「親と子がハッピーになるためのコミュニケーション講座」を見学していると、そりゃそんなふうに言われたら(聞かれたら)、子どもはコミュニケーションも信頼も諦めるよな、と思うことが多々とある。
「経験不足」という意味が、よくよく理解できる。
でも、子どもとしていまから経験することはむずかしくても、学ぶことはできて、
そしてそうしたいと思うひとが、少なくともわたしたちのブログを読んだり本を読んだり、講座を受けてくださったりトークライブに来てくださったりしているひとたちがたくさんいることが、とてもうれしい。
「そうしたい」、「なりたい」と思って行動に移すことが、何百歩も先に進むことなんだなと、思う。