こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
日々を編むこどもとの暮らしは、毎日が楽しくってしかたがない。
だけど、こどもを「子育て」しているときって、こどもとの暮らしがしんどくなるね。
こどもをちゃんと育てなきゃ…っていうアレがじゃまをして。
じゃあ、どんなかんじを意識すれば、こどもとの暮らしを楽しめるんだろう?
あのアレって、どうすればなくなるんだろう?
こどもとの暮らしが楽しいふたつの理由
こどもと暮らしていると、毎日がたのしくってしかたがない。
それはなんでなんだろう? って考えたとき、まずひとつは、
そのひとが大好きなひとだから。
大好きなひとといてたら、そりゃ楽しいわな。
で、もうひとつは、その大好きなひとと、日々を編んでいけているから。
中島みゆきの「糸」ではないけれど、縦の糸と横の糸が織りあって、今日いちにちの小さな織物ができあがる。
明日また、互いが縦の糸と横の糸になりあって、ちっちゃなひとつの織物ができあがる。
そうやってちっちゃな織物が、一週間、一ヶ月、一年、十年、、、になって、かけがえのない織物になっていく。
縁あって出逢えたふたつの糸
先日、桜丘中学校元校長の西郷孝彦さんとの配信 のとき、ご参加くださっていた方からのご質問で、
「親子ってなんですか?」と聞かれた。
親子ってなにか?
これまで考えたことなかったわたしが、このときも考えることなく、からだから出てきた言葉は、「縁かなぁ」だった。
縁あって出逢えたふたり。
ひとつの布は、ふたりのひと織りずつ、織られていく。
朝、起きたときに、今日の夜できあがる織物が、どんなになるかはわからない。明日の出来なんて、もっとわからない。
だから、たのしい。
だから、ひと織り、ひと織りを、大切に丁寧に編みたいとおもう。丁寧に編むことは生命の欲求だから。
日々を編むのは共同の創造
「子育て」がしんどくなるときっていうのは、
朝起きたときに、今日はこんな織物を作ろう、って先に思ってしまうとき。
親と子の織物は、ふたりの糸(関係性)で編まれていくものだから、自分(親)ひとりで編めるものではないから、そうでないとき、ふたつの糸はとたんに絡まる。
将棋のように、こちらがひと織りしたら、次はこどもの番。それが「編む」。
ルール違反をしているのはわたし。
2歳のこどもとは、2歳の今日を編む。
10歳のこどもとは、10歳のいまを編む。
上のこどもとは、上のこどもとの今日を編む。
下のこどもとは、下のこどもとのいまを編む。
編むは、共同の創造。縁ある親と子、それぞれの存在のまるごと。
共に存在している「いま ここ」を、過去の糸と未来の糸で編もうとすれば、ふたりが生きていることの本質は遠のく。
まっさらな今日をふたりの糸で編めるキセキ
朝起きたら、やることは、しっかりと意識にとめること。
なにを? 今日もまっさらなんだ! ってことを。
ただ、いとおしい大好きなひとと、今日も一日を編めるんだ! ってことを。
一秒後、なにが起こるかなんてわからない。
だからこそ毎朝カーテンをあけるときにでも、まっさらな今日をふたりの糸で編めるキセキをよろこぶ癖をつけていく。
そのとき、親と子は、毎日がゼロになるんだとおもう。