AI-am(アイアム)の
星山 海琳です。
小中高に行かないことを選ぶと、学校について考える機会が多くなります。
学校に行くこと、行かないことについて、思うこと。
もくじ
学校へ行かないことを選んだ理由
わたしは小学校に入学してすぐ、学校へ通うことをやめました。そのあとも、中学校・高校には行かないことを選んでいます(中学校は在籍のみ)。
なぜかといえば、ただ「行きたくなかったから」です。
するとだいたい、自然に「行きたくなかったのはどうして?」と聞かれるものなんですが、この言葉に、わたしは即答することができません。
当時6歳だったわたしにとって、行きたくない理由なんて、どうでもよかったんです。
言語化よりも感受に長けた子どもが、それはもう鮮烈すぎるほどはっきりと「行きたくない」と思っている事柄に、それ以上の理由づけなんて必要ありません。
もちろん、あとからいろんな理由をつけ足すことはできます。
国家と企業のために身を粉にして働きに働くような、一方的な戦争にも自ら進んでいくような、理想的な大人になりたくなかった。そういう大人を育てるための教育 に身を置きたくなかった。
だってそれは、自分ではないから。
学校に通っているときには見えないものがある
なにかの渦中ど真ん中にいると、それ自体はよく見えなくなるものです。
自分のいる世界よりもちょっとずれた位置にあるもののことのほうが、客観的に見えるし、冷静に考えられる。学校もそうです。
小中高の12年間を、ごく一般的に過ごしてきたひとと、そこから距離をとって眺めていたわたしと、どちらが「学校」そのものについて考えたかといえば、たぶんほとんどの場合、わたしだと思うんです。
考える、といっても、もちろん「宿題やらなきゃな」とか「明日の時間割なんだっけ」とか、直接的に学校生活について考えた回数なら、わたしはほとんどゼロに近いのですが。
でもそうではなくて、たとえば「学校行くのヤだなあ」でもなくて、
学校ってどんな場所で、そこにいるひとたちはどんなふうで、その場所に対して自分はどう思っているのか、自分にとってどんなものか?
と考えることは、わたしのほうが容易だったと思います。
すべての子どもたちにたったひとつだけ用意された場所であること
学校には行かなかったけど、でもわたしは、べつに学校が嫌いということはありません。
好きか嫌いかの二択を迫られれば嫌いと答えるほかないけど、単純に、「合わない」。
わたしの価値観、感覚では、学校教育を批判する気持ちはたしかにあります。
でもそれは、自分の肌と合わないものへの批判ではなくて、学校がすべての子どもたちにたったひとつだけ用意された場所であること、への批判です。
他人を侵さない範囲で、やりたいかやりたくないか、楽しいか楽しくないか、心地いいかよくないか、だけで選択できないものってあるだろうか。
あるのかもしれない。でも、学校は絶対にそうじゃない。
学校は学びたいひとが学ぶ場所
子どもが学校へ行かないことは法律違反ではないし、「いけないこと」でもなければ、「よいこと」でもありません。
毎日行ったっていいし、一日おきでも一ヶ月おきでも、国語の授業やプール授業だけでも遠足だけでも、卒業式だけ出ても、まるっきり行かなくても、なんでもいい。
母親であるよっぴーとの共著、『小さな天才の育て方・育ち方 小中高に通わず大学へ行った話』や『不登校になって伸びた7つの能力』でも書いたことですが、学校は、ひとが学ぶ場所です。学びたいひとが、学ぶための場所。
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『小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話』(セルバ出版)
『不登校になって伸びた7つの能力』(廣済堂出版)
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小学校や中学校、高校で学ぶのは、誰だろう? それは間違いなく、子どもです。
そこで学びたいひとだけがそこで学べばいい。それは当然のように楽しい。
逆に、そこで学びたいなんてこれっぽっちも思っていないひとが毎日、文句や不満を唱え、時計の針の微々たる動きを眺めて、ペンを指先でもてあそんで、やりたくない勉強のために丸暗記を試みて、夏休みや冬休みに大喜びしている。
そういうのは、あんまりすぎる。でも子どもたちは、自分の意思で選んだわけではなく、ほとんどが選択肢を知ることさえないまま、有無を言う暇も与えられないまま、そこにいます。
学校はなんでもいいしどうでもいい
「学校に行くこと」と「学校に行かないこと」のあいだには、差がない。正しさもなにも宿っていません。好きなように、選べばいい。
そしてそれは、公の学校だけではなくて、さまざまなオルタナティブスクールもおなじです。
どうでもいいんです。どうでもいい。どんな学校に行こうが、どんな学校にも行かずに家や街町で暮らしていようが、なんでもいい。
すべてに優劣はないし、自分が素晴らしいと思ってはじめて、価値があります。そうでなければ、価値なんてありません。
自分が、それを素晴らしいと思うなら、それは絶対に素晴らしいことです。