こんにちは、AI-amの星山まりんです。
親は子どもを「信頼」して、「待って」あげるのがいい、というけれど、それってどういうことなんでしょう。
「どうやったら信頼できますか」「どうすれば待ってあげられますか」と言うけれど、それって、近道にみえてよっぽど遠回りなことをしている。
考えたことは財産
どうすれば、といった「方法」は、例題以外のことや、それでは応用できないときに何度も何度も探しなおすことになります。
でも、「信頼するってなんだろう」「待つってどういうことだろう」ということを考えこんで、一度(自分なりの)答えが見つかれば、分かれ道にくるたび地図を探さないといけなくなるようなことはない。
ナビに住所を打ちこむ観光客より、地元民のほうがよほど早く、楽に、目的地へ辿りつける。
その土地のことをよく知って、道をおぼえるまでの時間はナビに住所を打ちこむ時間より多くかかるかもしれないけど、それは財産だと思う。
それが一方的でなく人との関係で、ましてや子どもとのことであれば、なおさらです。
「子どもに全部を決めさせる」
「信頼してあげる」「待ってあげる」という見方になるとこれはもう「信頼していない」のとあんまり変わらない、みたいなことは今までにも書きました。
そこにはあきらかに親子の上下関係があって、支配的・服従的な関係がある、というはなし。
こういう言葉の並びに、「子どもに全部を決めさせる」というものがあります。
親が口出し手出しして、子ども自身が選択する余地をうばっていたり、
それこそ支配的な愛情から、子どもが親の判断(許可)なしでは決められなくなってしまったり、
子どもが自分自身で選ぶことに自信がもてなくなったり(世間の常識からはみだしていないかどうかが基準になったり)。
それが本人の希望ならともかく、結果そうさせられているなら、それはとても楽しくないし、窮屈な感じもする。
「決める」ということを「決める」?
子どもが(子ども自身だけに関することの)全部を決めるのは、当然です。
子どもと母親に関係があることなら子どもと母親が決める、家族みんなに関わることなら家族みんなで決める、友人、学校、恋人、仕事において、etc、そういう当然と、おんなじこと。
じゃ、「決めさせる」ってなんだろう。
「決めてもらう」でも、変な感じ。
「子どもが決める」ってことは、「子どもが決めるということ」を「自分(親)が決める」んじゃなくて、親(あるいは子ども自身以外の、世の中のみんな)の自分に関係のないことに自分は関与しない、ということです。
この、「子どもが決める」ということそれ自体を「自分(親)が決める」ような感覚でいる人が多いなあ、とも思う。
まわりのだれかが口や手を出しはじめるまで、子どもはなんだって自分で決めてきているのに。
子どもは他人
じゃ、「子ども自身のことには、わたしは関与しない」。
これならもうちょっと正確に伝わるかもしれないけど、たぶんまだ言葉が足りない。
それに、ちょっと冷たくもきこえるかもしれません。
ほんとは、冷たくも熱くもないものです。適温で、きもちがいいもの。
「子どもに全部を決めさせる」ために考えないといけないのは、「どんなことが子ども(だけ)のことで、どんなことが子どもと自分に関わることなのか」。
その区別がはっきりしないなら、あれもこれも口出しされる環境にあったところから、「子どもが子どものことの全部を決める」ようなことは、できません。
そして、この区別ができるなら、「近道にみえてよっぽど遠回り」の逆を行くことになります。
けっして、「時間がかかること=遠回り」ではありません。