こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山 海琳 です。
「退屈」という言葉の使い方は、ひとつじゃない。
退屈そうに見えるとき、本人はほんとうに退屈なんだろうか?
いや、それより、退屈って、豊かで、心地いいものじゃないだろうか?
退屈は大歓迎
退屈について、以前こう書いたことがある。
「退屈」と「暇」は、ちゃんと区別したい。
暇をもてあまし、つまらなくなったとき、「退屈」という言葉を使う。
もちろん、退屈だって、悪いことではないのだけど(「退屈の向うで出るものは出るのさ」(開店休業/ユニコーン)。
けれどよっぴーがFacebookで書いたあるコメントを読んで、あ、そういえばそうだな、と思い当たったことがある。
わたしが、↓
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で使った「退屈」は、自分自身がなにかを心底つまらなく思い、うんざりだな、というときを思い浮かべていた。
でも、退屈ってもっと何層もある言葉というか、ひとつの場面だけで使われる言葉ではない。
違う位置から見ると、むしろ退屈は大歓迎、と思う。
退屈そうに見えること
退屈って、しずかにしているときを当てはめられやすい。笑って遊んでいたって、楽しいよと口にしていたって、退屈なときはあるんだけど。
わたしの退屈はなんだっただろう、と思い返してみたけど、これといって浮かぶものがない。
それは、「まりんさんにはやりたいことがあったから」とか、「好きなものがあるっていいよね」とかいう話ではなくて、たぶん退屈そうに見える瞬間は、何度も何度もあった。
わたしが好きだったことのいくつか、たとえば時計の針の動くのを見ること、うちの窓際に置いてあったソファに座って保育園や街灯や車の流れや風になびく水たまりや台風前の夕暮れや夕方から夜になっていく色を眺めること、街の高速道路を定点カメラで映している無音の深夜のテレビを見ること(朝の番組には水を差されるのですぐに消して寝る)、等々。
こんなの、はたから見れば、夢中になれるものがない、退屈や暇な状態と捉えられるに違いない。生産性はないし、「有意義」で「役立つ」考えごとをしているわけでもない。
でもわたしはそういう時間が好きだった。退屈の豊かさを、心地よく感じるひとだったと思う。退屈のなかで、自分と親しくなった。
あとから聞けば、よっぴーも、ずっと同じ感覚だったらしい。
豊かな退屈、優雅な退屈
「暇」「退屈」と声にしていたところで、それが本人の苦痛になっているのかどうかは(もしかすると本人にも)わからないし、救ってほしいのかどうかもわからない。
(まあ、そのあたりは、どんな家庭環境か、どんな親か、なにが決められていてなにが決められていないか、等々による。)
退屈をすることがなにかを生むとか、動き出すための充電だとかいう側面ももちろんあるだろうけれど、それって、なにか結果があることを期待されているような、あるいは結果がなければやっぱり価値はないと言われているような、そんな気にならないこともない。
いやでいやでしょーがない授業だとかバイトや仕事、人付き合い、そういうときに感じる苦痛な退屈は、わたしは自分の生活からなるべく排除しているし、いくら苦痛でもこれは自分にとって必要なことだ、と思えることしかやらないけど、
ぽっかり空いたような、あ、なんか無が見えるな、でもこれってたぶん無限に有るな、みたいな、過去も未来にも身を置かない退屈は、まったく豊かで、優雅で、こういうのが続くだけ続けばいいなという気分になる。
そういう退屈なら、なにか生産性のある(ように、見える)もので埋めるより、退屈をさっさと愛してしまったほうが楽しい。
これを書きながら聴いていたアルバム:Lou Reed 『Transformer』