こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
小中高には行かず、好奇心に身を任せて「やりたいことをやる」「やりたくないことはやらない」をしてきた星山海琳(まりん)さんの「学び」「学び方」が顔をだした会話から、おもったことを書いています。
もくじ
カリキュラムや評価がないところで育ってきた人の「学び」「学び方」
昨日のこと。
まりんさんが牛乳の紙パックを開けているときに、これまでに行った海外のいろんな牛乳容器のことを思い出して、あそこはあーやったな、こーやったなと、牛乳の開け方の話になり、、、
あー、海外いきたい! ってなったんですね。
このときのおしゃべりは、単純に旅好きだから、もういいかげん日本の外に出たいぞーって話だったのだけど、
まりん さんが話している牛乳パックの開け方のことって、他者が定めたカリキュラムや評価がないところで育ってきた人の「学び」「学び方」であり、
やりたいという気持ちを自分の内側にもっていた人/自分の内側にもっている人 の話だなあ、と思ったのでした。
内発的動機付け – 学ぶ意欲は自分の内側にもっている
この「やりたいという気持ち」は、学ぶ意欲のことであり、とんでもなく、すっごく、すっごく大事なものだと思うんですね。
ちいさな年齢のこどもなら、だれもがもっています。
学ぶ意欲を、自分の内側にもっています。
○○したい! ◇◇したい! その動機は、学ぶことそのものを目的とする内発的動機 (好奇心や探究心など自分の内側から沸き起こる欲求)です。
ところが年齢があがるにつれて、内発的動機からくる「学びたい欲」は薄められていくんですよね。
外から、上から、させられることが増えてきて。
小学校に行けば、(学習指導要領に沿って)宿題もあるしね。
外発的動機付け – 学ぶ意欲を切り落とす
こうして、学ぶ意欲の動機は、学ぶことを手段とした成果や評価を得るための外発的動機 (報酬や評価、罰則や懲罰といった外側からの働きかけによる動機付け)になっていきます。
テストの点数がよかったらゲームを買ってもらえたり、わるかったらスマホを取り上げられたり、ってやつね。
受験で合格したあと、燃え尽き症候群のようになってしまったり、、、なんてのもありますね。
そんなじゃね、そりゃあ、学ぶことがおもしろくなくなります。
小学校では、その漢字を習うまでは、(ほんとはもう漢字を知っている)自分のなまえでも、ひらがなで書かなきゃいけないじゃないですか。
ああいうのって、学ぶ意欲をしょげさせられちゃう。
なにかに興味をもった。それは、牛乳パックを開けてみたいといったような、とてもささいなことかもしれないけれど、
内発的動機からきた知的探求は、それ自体がよろこび なんですよね。
自分が欲していること、やってみたいこと、知ってみたいこと、そういったことをこども本人自らが感知して、知っていく、やっていくことは、本当に大切なことです。
「学ぶ」をさせようとして親が先回りをすると、やがて内発的動機からくる学ぶ意欲を切り落とすことになってしまいます。
「やりたいという気持ち」学ぶ意欲が消えていく
仮に、こどもが「いろんな国の牛乳パックを開けてみたいから、いろんな国に行ってみたい。連れていってほしい」と言ったら、どうだろう?
はあ? しょーもな、って思っちゃう大人がいるんじゃないかな。
あるいは、「いろんな国の言葉を知ってみたいから、いろんな国に行ってみたい。連れていってほしい」と言ったら、どうでしょうか?
海外旅行にかぎらず、どこかに行ってみたい、なにかをやってみたい、習ってみたい、などなどをこどもが言うとき、親は、その動機や目的に焦点をあわせ、YES/NO を決めがち です。
親の価値判断になってしまっているんですよね。
そして、NOが続けば、やがてこどもは「〜してみたい」とは言わなくなっていきます。どうせまた、「そんなしょーもない理由じゃダメよ」って言われるんだろう、と。
子どもと遊ぼう
親はよく、「学ぶ」を先に持ってくるけれど、
「学んだ」は、いつもあとからついてきているもの です。
親心で、あれを学ばせてやりたい、こんな経験をさせてやりたい。そんな意図でもって海外旅行へ連れて行ったり、動物園に連れて行ったりします。
けれども、親が想定したことをこどもが学ばなかったら、せっかく連れてきてあげたのに、っていらついちゃったり。
以前の勉強会で、わたしが息子のことを話したのもまさにそれでしたよね(次回の勉強会のお知らせは こちら です!)。
「学び」を先に用意せずに、こどもと遊ぼう。
自分の思い込みを超えて、子どもの姿から愛を学んでいこう。そう思います。