こんにちは。
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
子どもの豊かさをまもる会話術とあわせて、子どもと遊ぶというのはどういうことか? 教育とは誰のためのものなのか? について書いています。
ヨロコビをわけあたえてくれるレストラン
6年ほど前の春のある日のこと。ヨロコビをわけあたえてくれるレストランに出逢いました。
レストランは公園の砂場です。
砂場で腕をふるうシェフ(女の子)は、差し出したお料理の出来をお客さん(その女の子のお母さん)に尋ねています。
お客さん(母)「おいしーです。チーズが口の中でとろけて絶妙なハーモニーですね」
シェフ(子)「満足してもらえてうれしいな。じゃあ次はキャベツをあえたパスタね」
眺めるわたしの視線にシェフは、プロ意識を弛まさず声をかけてきました。
「空いてますよ。いらっしゃいますか?」
はい、と即答し、注文をお願いしました。
「わたしもキャベツのん、お願いします」
このお母さん、言わなかったんですよ。
「こらこら○○ちゃん、やめなさい!」とか、「どーもすいません。ほんと、この子ったら…」といったせりふを。
それにね、してなかったんですよ。「そこにいてるだけ」を。
「遊ばせてる」じゃなくて、「遊んでた」。
「一緒に居る」というのは、いまここに心が一緒に在るときをいうのだとおもうのです。
遊びと会話は学びの要
「教育 (education)」という言葉の元来の意味はラテン語から来た言葉で、“ 無知から導きだす ” という意味だそうです。
でもそれは、おとなが子どもを無知から導き出す、のではなく、子ども自身が(おとなも)自分で自分を導くものだと考えるわたしは、人生を通じて遊びほど大事なことはない、とおもっています(あと、「会話」も)。
なぜなら遊び(&会話)は学びの要なのだから。
だから子どもがなにかして遊んでいるときに、それを妨害する、なんていうのは、 ― たとえば宿題だったり、お風呂だったり、、 の他の行動(たいていは親がしてほしいとおもっていること)をするよう言ったり、助力を求められていないのに、口出ししたり、手を出したり、etc… ― 当たっていた宝くじをパァ~にするより残念なこと。罪でしょ。学びの権利を奪うなんて。
寝食も忘れてゲームをしている…。
そう、遊びによって学んでいるもの、それは集中する能力。焦点を絞る能力。
失敗しても失敗しても途中で投げ出さない ひたむきさや、倦むこともなければ急ぐこともない いちずさでもって。
問題解決能力が伸びる遊びは、豊かな知恵を生む貴重な財産
キャベツをあえたパスタができたとき、「あ゛あ゛あ゛~ なんかちゃうねんなぁ」と独り言をつぶやいた女の子。
シェフ 「お味のほうはいかがですか?」
わたし 「ん~~~ なんかね、クリームの味が勝っちゃって春キャベツがかくれんぼしてるみたい?」
シェフ 「あーーー やっぱり!(中略) ねぇ、明日も来れる? おいしいの作れるようになりたいから!」
遊びは常に未知の世界が広がっていきます。
自らが自らに評価を下しながら、どんどん自分で難しいことを増やし、さらなる高度なものを目指して。
最大の遊び道具、想像力を超えた創造力をもって。
「学びたいこと」からスタート
やりたくない! と「 我の世界 」は知っているのにやっていること、たとえばそれが学校の勉強ならば、やりたくない勉強をしている暇があったらやりたいことをやろう! なのであります。
教育は誰のためにある? 誰のための教育なのか?
親が決めた、そして国が決めた「教えるべきこと」から学びはスタートしていますが、「学びたいこと」からスタートすれば、人は自ずと自分というものに辿り着きます。
学ぶ人が学びの主役です。